2月6日は、豊臣(羽柴)秀吉公が誕生したとされている日。
そこで2月の記事は秀吉公について、私の見解のもと書かせて頂けたらと思います。
正直申しますと…私は秀吉公はあまり好きではありません。関西人なのですが…(^_^;)
私は浅井家、織田家、そして明智家が好きなので、豊臣(羽柴)が好きなわけはないのかもしれませんが。
「織田家が好きなら大丈夫じゃないの?」という方もいるかもしれませんが…
今回は豊臣秀吉公がどういった人物で、何をなされてきたかについては既にご存知だと思わせて頂き、綴らせて頂きます。
秀吉公を語る際によくお話に出る内容に「晩年がおかしい」「天下人になっておかしくなった」という話題。
秀吉公の晩年については、色々と語られる方も多いかと思いますが、今回はそこに私なりの見解と解釈を加え、綴らせて頂けたらと思います。
低い身分から成り上がり、本能寺の変で織田信長公が亡くなった際には、すぐさま明智光秀公を討ち、その勢いのまま清洲会議を制し、柴田勝家公にも勝利し、織田信雄公と徳川家を抑え九州を平定し、北条氏を滅ぼし、天下人となった秀吉公。
その裏では非情ともいえる政治を行い、民さえ殺めてきた…多くの人々を殺した武将としても有名です。
では、秀吉公は人を殺したかったのでしょうか?
スポンサーリンク
改革者であり、その魅力と計り知れない思想は、今もなお多くの人々を魅了し続ける、まさに戦国のカリスマ、織田信長公。
天下まであと一歩という所で、本能寺にて謎の死を遂げたのも、まさにドラマのような人生ですよね。
本能寺の変の後のことを、現代的に表現しますと、革命的思想で会社を作り上げた社長が突然亡くなり、副社長の位置にいた明智光秀公と羽柴秀吉公が次期社長の座を競い、羽柴秀吉公が勝利したというような…
それはつまり、信長公が作り上げた世界に取って代わった形で入ったのが、秀吉公だという評価があるということ。
戦国時代でも、このように言う者もいたかと思います。
信長公は兼ねてより、世界を視野に入れていたようです。
宣教師が持ち込んだ地球儀を見て、日の本の小ささを確信したと云われております。
そして信長公は、貿易の重要性を早くから認識していたらしく、貿易の発展を考えていたとも思われます。
信長公の「天下」とは、日の本にあらず。
天下=世界だと。
信長公が本能寺の変で亡くならなければ、朝鮮出兵はもっと早く実行されていたのかも知れません。
秀吉公にとって、信長公が成し遂げられなかった「朝鮮出兵」を成功させることは、かなり重要だったのだと思います。
異国からの侵略を阻止する為に、日本国の力を見せつけるという目的も勿論あったかと思いますが、信長公と比べられる周囲の評価を覆すため、何よりも自分の中の信長公を超えるため…そういった想いもあったのではと私は感じております。
ただ、その朝鮮出兵をずっと止めていた武将がおりました。
朝鮮出兵へ反対していた人物の一人に、秀吉公の弟、秀長公がおります。
ずっと側で秀吉公を支え、天下人へ押し上げた参謀として知られており、秀吉公にとってとても信頼のおける人物だったと思います。
秀吉公は、低い身分の自分にコンプレックスがあったと思いますので、自分の身内筋には独自の執着があったと感じております。
奇行と呼ばれる秀吉公の行動は、秀長公が亡くなってから現れ始めたと言われておりますが、私もそう感じております。
1591年2月15日、秀長公が病死します。
この時の秀吉公の喪失感は、かなりのものだったと思います。
天下人となり、周囲の評価や自身の生まれへのコンプレックス、どんどんと閉鎖的になる秀吉公の心を支え、言葉や行動で自信を持たせ続けていたのは、秀長公だったのではと。
秀長公は本当に秀吉公が大切だったのではないでしょうか。
彼にとっての秀吉公は、どんなに偉くなったとしても「血をわけた兄」だったのではないでしょうか。
秀長公を失いバランスを崩していたであろう秀吉公は、もう一人の貴重な話し相手であった、千利休の行動を裏切りと感じ、切腹を命じます。
千利休、1591年4月21日、自刃。
ただ、千利休への切腹を命じた理由も、未だはっきりとしておりません。
スポンサーリンク
秀吉公が利休公の娘を妾にと望んだが拒否され、秀吉公の恨みを買ったという説。
秀長公死後の豊臣政権内の不安定さから来る闘争に巻き込まれたという説。
朝鮮出兵を批判したという説。
交易を独占しようとした秀吉公に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説。
権力者である秀吉公と、芸術家である利休公の考え方の相違が起こったという説 。
家康公の間者として茶室で毒を盛り、秀吉公を暗殺しようとしたという説。
茶会で秀吉公に茶をこぼしたという説。
など…真相は秀吉公のみが知り得るものかと思いますが…ただ、自ら大切な人を…
そうしてますます閉鎖的になってしまったと感じられます。
その後1591年9月22日、秀吉公の希望、嫡子「鶴松」も病死します。
一年の間に、秀吉という人間にとって大切な人々を、一気に失ってしまいます。
そして更に、1592年8月29日には、最愛の母親を亡くします。
秀吉公の母想いは有名で、離れている際も、何度も母へ手紙を出していたと云われております。
度重なる不幸…秀吉公は自らの運命を呪い、自身や世の中を責めたかと思います。
そうした不幸が続く中、朝鮮出兵を実行。
ですが思うような結果が出ず、ますますバランスを崩していく…
そんな中、1593年8月29日、奇しくも母親、大政所が亡くなった同じ日に、側室の茶々様との間に秀頼公が生まれます。
秀吉公は彼に自らの人生の全てをかけるかのように、溺愛します。
ですがまた、豊臣家に暗雲が立ち込めます。
秀吉公が秀次公へ切腹を命じた「秀次事件」が起こってしまいます。
ただこの秀次事件も、切腹を命じた明確な理由は未だに分かっておりません。
こうして1595年8月20日、秀次公は切腹致します。
スポンサーリンク
秀次事件は豊臣家臣達の間でも様々な憶測や疑問を生み、秀吉公の作る天下に不安を感じる者が具体的に現れ始めるきっかけの一つとなった、大きな事件だったかと思われます。
その後1598年9月18日、朝鮮出兵中に秀吉公は亡くなります。
朝鮮出兵は豊臣政権に大きな痛手と家臣の確執を生み、終了します。
死を迎える直前の彼を見舞った人物に、キリスト教宣教師のロドリゲスがおります。
ロドリゲスが見舞った際の秀吉公は「干からびたかのように、ぼろぼろになっている。まるで悪霊のようだ」という記述を残しております。
その姿はまるで、生きる力を全て使い果たしたかのような…
秀吉公はギリギリだったのかも知れません。
自ら彼と生きると決めたおね様も、大変お辛かったと思います。
どこまでも明るく、懸命で、必死に生きている彼を愛したはずで、だからこそ彼の望む天下を取らせてあげたかった…
ですがその天下が彼を蝕んでいった…
そしてその愛する人の遺体は、政治の混乱を避けるため、塩漬けにされたとも…
秀吉公を失い、愛する人の寂しい最期の姿を見て…おね様の喪失感も相当なものがあったと思います。
その後の彼女の行動等を見て、彼女はもう終わりたかったのではないかと、私は感じております。
人間は自らを信じる力「自信」がなければ、結果を出し、走り続けることが出来ないと言われております。
貧しい生活の中でも支え合い、共に頂点まで歩んできた、血をわけた大切な弟…秀長公が、彼の真の心の支えであったのかもしれないなと。
人間はどこまでいっても人間であり、それは天下人も同じこと。
天下人という重圧は、計り知れないものだと思います。
天下人の豊臣秀吉と、本来の己とのギャップ、周囲の評価。
スポンサーリンク
生まれが悪い自分がと思えば思う程に足枷となり、雁字搦めとなり
織田信長公の凄さを目の当たりにしてきたからこそ、越えられない壁が傷となり
徳川家康公の計り知れない底の深さに、怯えていたのかもしれません。
そうして家臣、周囲、自身さえも信じられなくなっていった…
私は秀吉公が嫌いです。
どこまでも人間的な彼を見ていると、自らもまた人間であると思い知らされます。
ただ、人間らしい彼が天下人となり、自らと戦い続けてきた姿は懸命で、その生涯に儚さを感じ、敬意を払いたいと思います。
凡人の彼だからこそ、非凡な人間になれたのではないでしょうか?
誰よりも天下に振り回された人物、それが豊臣秀吉公ではないかと、私は感じられます。
天下人、豊臣秀吉。
彼は幸せだったのでしょうか?
「つゆとおち つゆときへにし わかみかな なにわのことも ゆめの又ゆめ」
(寄稿)在原 叶
・明智玉子(細川ガラシャ)とキリスト教の関係考察
・戊辰戦争の初戦 「鳥羽・伏見の戦い」の地~京都市伏見区の史跡案内
・大阪城の史跡巡り観光堪能2時間コースのご紹介
共通カウンター