室賀正武(むろがまさたけ)は、室賀城主(笹洞城・原畑城)であり、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」において、室賀正武は俳優・西村雅彦さんが演じます。
武田信玄の時代に、村上義清に従っていた楽巌寺光正(室賀光正、室賀山城守信俊)の子と推定される、信濃国小県郡の室賀正武(室賀義澄、室賀兵部少輔)は、武田勝頼の自刃により武田が滅亡したあと、北条氏直に従っていたと推定されます。
なお、室賀信俊(室賀山城守信俊)と言う武将は、武田勝頼に従い長篠の戦いにも出陣しましたが、その時の怪我がもとで死去したとされます。
室賀城は居館一体型の城館のようで、通常の政務は原畑城で行い、有事の際には笹洞城に立て籠もったと考えられます。
1583年9月に真田昌幸が徳川家康から本領安堵されると、真田昌幸が小県の室賀正武を攻略しようと1583年10月に攻めましたが、室賀正武は真田家に和睦を申し入れます。
この時、真田昌幸はしぶしぶ和睦に応じたようですが、これで室賀正武は真田家の実質的な家臣となりました。
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その後、真田昌幸が尼ヶ淵城を大改修して「上田城」の築城を開始します。
そして、徳川家康と北条氏直が和睦した条件の吾妻領・沼田領の引き渡しでは、真田昌幸は拒否。
徳川家康は大久保忠隣を派遣して、真田昌幸に吾妻領と沼田領の引き渡しを命じますが、それでも真田昌幸は断固として拒否しました。
そんな中、室賀正武は徳川家康に対して、真田昌幸への不満を漏らしていたようで、徳川家康は1584年6月「謀りごとにて真田を討つべし」と室賀正武に対して真田昌幸の暗殺を命じます。
具体的には、室賀家の家臣・鳥井彦右衛門尉を駿府城に派遣して、徳川家康に助けを求めると、真田昌幸を謀殺せよとの指示を受けたとされます。
そして、一族の室賀孫右衛門を徳川家の鳥居元忠に派遣し、援軍を要請しようとします。
室賀正武が上田城に呼ばれた際に、真田昌幸を暗殺するための手筈でしたが、この室賀孫右衛門が、既に真田昌幸に内通しており、真田昌幸が事の次第を知った訳です。
そのため、真田昌幸と真田信幸(真田信之)は、逆に一計を用いて「御用医師・坂巻夕庵との囲碁の観戦に来ないか?」と室賀正武(室賀義澄)を上田城に招き、暗殺計画が進んでいるように見せかけます。
室賀正武は成功を疑わず、家臣の桑名八之助、相沢五左衛門尉、堀田久兵衛らを連れて上田城を訪問しました。
そして、書院に通されたところを、次の間に控えていた真田家の長野舎人・北能登守・木村五兵衛・木村渡右衛門らに急襲され、命を落としたのです。
この室賀正武(室賀兵部少輔正武)の死により、小県郡で真田昌幸に対抗する勢力は無くなり、室賀家の家臣・松沢五左衛門らが真田家に加わっています。
なお、室賀正武の妻子は、上杉景勝の元に送られました。
暗殺に失敗した徳川家康は、1585年4月、大久保忠隣ら7000を派遣して、沼田の明け渡しを求めます。(第一次上田合戦)
そこで真田昌幸は徳川家を見限って上杉景勝を頼る交渉をし、1585年7月に真田昌幸の上杉家帰属が認められるのです。
室賀久太夫
なお、室賀正武の子・室賀久太夫(むろが きゅうだゆう)(妻は屋代秀正の長女)は、1584年7月に父・室賀正武が真田昌幸に暗殺された後は、出家し永寿と号して善光寺に入っていました。
その後、直江兼続の誘いを受けて、還俗すると上杉家に仕えています。
その後、尾張で松平忠吉の家臣となりましたが、父が殺害された際に、真田昌幸に協力した一族の室賀源助を討つために信濃へ戻りました。
そして、室賀源助を討ち果たしすと。尾張へ戻って、徳川義直に500石で仕えています。
尾張では潜伏行動を取り、各地の情報収集や工作を行ったようで、名古屋城が築城されると、二の丸の初代隊長となりました。
また、大阪の陣では、尾張・徳川家の御使番(参謀)として参じたとあります。
1633年には、800石となり黒門足軽頭を担当し、子孫は代々尾張徳川家に仕えています。
他も一族は散ったようで、室賀兵庫が徳川家で5500石とあり、もしかしたら、室賀久太夫と同一人物かも知れません。
また、紀州藩では室賀源十郎が1500石となっています。
原畑城(室賀城)
原畑城は、豪族・室賀氏の居城です。
このページトップの写真ですね。
戦国時代には村上義清の家臣で、上田原の戦いでも村上勢として室賀経俊が参戦しています。
その後、武田信玄に臣従すると「信」の字を与えられて、室賀信俊(室賀山城守信俊)と改名しました。
そして、長篠城や、駿河・田中城の城将のひとりとしても、室賀氏の名が見受けられます。
この室賀信俊(室賀山城守信俊)は、1575年の長篠の戦いにて重傷を負って帰国したとあります。
なお、戦国期には原畑城の背後にある笹洞城(下洞山)を中心に、跡部城(三頭山)、伊勢崎城(摺鉢山)と山城を築くと詰め城としたようで、これらを総して室賀城とも言います。
下記が笹洞城(下洞山)です。
約1万石ほどの勢力だったようで、原畑城が屋敷として機能しており、現在の原組公民館の一角に「室賀氏屋敷跡原畑城」の碑が昔はあったようですが、現在は失われているようです。
ちなみに、青木村の村松には、小山田茂誠と村松殿の居館がありました。
室賀城へのアクセス・行き方ですが、JR北陸新幹線・しなの鉄道「上田駅」から千曲バス・室賀線で「室賀温泉ささらの湯」バス停下車となります。
クルマの場合、下記の地図ポイント地点が、原畑城があった辺りです。
駐車場はありませんが、道路は駐車禁止ではありません。
地図は縮尺を変えてご確認願います。
なお、近くにある前松寺(ぜんしょうじ)が、室賀氏墓所となっています。
室賀氏墓所は、2016年に地元の方により整備され「室賀氏の墓」と行き先案内板がありました。
しかし、どこだか分かりませんでした。
恐らくは、前松寺の裏山に続く道の途中にあるかと存じますが、裏山ではなにやら作業もなさっておられましたので、遠慮させて頂きました。
なお、誤解があるといけませんので記載しますが、室賀正武が暗殺されると、室賀氏はこの地を捨てて逃亡しています。
そんなこともあり、室賀氏の誰の墓かは不明でして、室賀正武の墓があるかも確認されていないようです。
ただし、後世に墓(供養碑)として設置した可能性もあり得ますが、古いお墓は、刻まれている文字が読めなくなることが多く、その結果、誰の墓か不明となりますので、なんとも言えません。(戦国時代くらいの墓は、だいたい読めることが多い・・。)
念の為、前松寺がある場所ですが、下記の地図ポイント地点が駐車場となります。
原畑城からもそんなに遠くはありません。
下記はオマケ写真ですが、室賀峠史跡公園です。
・第1次上田城の戦い【第一次上田合戦、神川合戦】の概要と経緯
・北能登守とは~小川城主として真田家に貢献した武将
・真田昌幸~戦国時代を巧みに生き抜き真田家を守った名将
・出浦盛清【出浦昌相】(出浦対馬守盛清)とは
・徳川家康と言う人物に迫る 性格や死因は?
・名古屋城 見どころ満載でかいぞ名古屋城の魅力と歴史