常田隆家(常田隆永、常田伊予守隆家)は武田信玄に仕えた真田幸隆と矢沢頼綱の弟で、生年は1520年とも?
小県郡上田の常田家の養子となり、常田姓を名乗った。
常田隆家の通称は常田七左衛門、常田新九郎。
矢沢頼綱よりも早い時期に真田幸隆の家臣に加わったと考えられる。
1562年、上杉謙信を頼っていた斎藤憲広の居城である上野・長野原城を真田幸隆らが落とすと、武田信玄は常田隆家を長野原城主(箱岩城)とした。
しかし、1563年9月、斎藤憲広に攻められて討死したとも、剃髪して道尭と称したともあり、1572年7月8日に上杉家との合戦で討死したとも良くわかっていない。
※1563年に討死したのは常田隆家の子・常田俊綱のみとする説もある。
真田昌幸が上田城を築城した際の城主の屋敷は、元々、常田屋敷があった場所だとする説がある。
上田市月窓寺に常田隆家の墓碑がある。
長男は常田俊綱、次男は常田綱富、三男・常田棟吉がいる。
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常田俊綱
常田俊綱(常田山城守俊綱、ときた-としつな)は、1540年生まれとされる、常田隆家の長男。
1563年9月、斎藤憲広が長野原城(箱岩城)を攻めた際、父と共に籠城戦を戦ったが守り切れず、常田俊綱が殿軍として須川橋と琴橋を落として追撃を防ごうとした。
しかし、常田俊綱はついに追いつかれて、討死したとされる。享年23歳。
常田綱富
常田綱富(常田七郎右衛門綱富)は、1547年生まれとされる、常田隆家の次男。
図書、七郎、七左衛門ともいう。
兄が討死していたため、父・常田隆家が亡きあと、家督を継いだようだ。
武田家臣の海野衆として永禄起請文にその名が伺える。
武田勝頼の自害後はは、真田昌幸に仕えて、重臣となり、その後、真田信之に仕えたようだ。
1620年死去。
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