真田昌幸が最初、養子に入った武藤家に関して調べてみました。
甲斐の武藤家は、甲斐源氏である武田氏の庶流・大井氏からの支族であり、武田信玄の母・大井の方が、その大井氏の出身です。
すなわち、武藤家は武田家の親族衆です。
戦国時代の甲斐・武藤家では、武藤信堯なる武将の名が見受けられます。
武藤信堯(むとう-のぶたか)は、大井信達の三男で、武藤家の養子に入ったようで、名門・武藤家を継ぎました。
「武田源氏一統系図」によると、通称は武藤五郎左衛門とされています。
しかし、武藤三郎左衛門尉の誤記ではないか?とする説もあるそうです。
1546年(1547年?)に甲斐を訪問した三条西実澄との交流があり、歌人としても知られます。
三条西実澄が帰京する際には、兄・大井信常と共に見送りし、三条西実澄の「甲信紀行の歌」には主君・武田晴信の他、武藤信堯の和歌も5首収録されています。
その後、信濃小県郡の村上義清との戦いに参戦。
1550年の砥石崩れ(砥石城の戦い)の際に討死した模様です。
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なお、武藤信堯の子に竹千代丸がいます。
どうも?、武藤三郎左衛門尉と名乗ったようで、叔父・武藤常昭から家督を譲られると、まもなく死去したと考えられています。
そのため、武田家の他国衆・真田幸隆の子である真田昌幸が「武藤喜兵衛」と称して武藤家の養子に入り、家督と軍勢を継いだのです。
なお、公事奉行であった武藤常昭(大井常昭)は武藤家領(御坂?)を安堵されており、別の武藤家を建て、1587年に死去したとされています。