あぐりは真田幸村の4娘として誕生しました。
母は正室。竹林院ですが、あぐりの生没年は不詳です。
母の説では、高橋内記の娘説もあるようです。
あぐりと母・竹林院は、大阪夏の陣の際、紀伊にて隠れていましたが捕縛され、京都にいた徳川家康に引き渡されました。
しかし、無罪とされて、しばらくは京都で暮らしています。
まだ、幼少であったあぐりは、真田昌幸の5娘・於菊の夫である滝川一積(滝川三九郎一積)の養女となり養育されたようです。
その後、成長したあぐりは、三春城城主・蒲生郷成の子・蒲生郷喜(蒲生源左衛門郷喜)に嫁ぎました。
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しかし、1632年に徳川幕府は、真田幸村の娘を養女として蒲生家に嫁がせたとの理由で、滝川一積を咎めて改易します。
実際には蒲生家の内紛(蒲生騒動)なども影響したことだったと推測しますが、於菊さんからも恨まれたかも知れませし、どんなに、あぐりは肩身の狭い思いをしたことでしょう・・。
でも、滝川一積は幕府の度量の狭さを笑ったと言いますので、せめてもの救いだったかも知れません。
夫・蒲生郷喜は1630年に失脚し、徳川家光の裁断により蟄居処分となり、その後は浪人したようで、1635年に亡くなったと言います。
あぐりのその後や、没年についてはわかっていません。