山田右近尉~北信濃の武将と真田家の関係

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大河ドラマ「真田丸」に登場する山田右近尉について色々と調べてみましたが、詳しい事は不明です。

元々、北信濃の山田氏と言うと、荒砥城主・山田越中守二郎として知られますが、山田氏は村上義清の村上一族です。
戦国時代には、山田国政が吾妻清綱とともに荒砥城主でした。

しかし、1551年4月、武田信玄に仕えていた真田幸隆が、弟・矢沢頼綱を援助し、山田国政と吾妻清綱は討死に、この時、山田家は滅んだとされています。




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話がそれましたが、山田右近尉は1582年、武田滅亡の直後に、真田昌幸の弟である真田信尹が接近を図りました。
この山田右近尉は、その滅亡した山田一族の生き残りと推測でき、引き続き北信濃の土豪だったようです。

真田信尹は武田滅亡後、兄・真田昌幸と岩櫃城に入っていたようですが、その後、北信濃に向かうと上杉家に臣従すると言う姿勢を見せました。
しかし、実際には、上杉勢の情報収集や上杉景勝に協力する土豪を調略するのが目的だったようで、山田右近尉なる武将の調略も試みます。

この時は、山田右近尉は上杉景勝に忠実な立場を取り、真田信尹を追放した人物とされています。
恐らくは、過去、真田家によって滅亡されたことを許していなかったのでしょうが、真田信尹の命は助けたと言う事になると思われます。

この手柄にて、1582年7月27日、上杉景勝は山田右近尉に感謝を示した朱印状を送っているのが見受けられます。

ただし、この出来事以外に、山田右近尉の動向は全く不明ですので、もしご存知の方がおられましたら、コメント欄にでもお寄せ願えますと幸いです。

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コメント(2件)

  • […]  その後は、一旦上田城に入るも真田昌幸らとは別行動を取っている。  北信濃においては牧之島城にて上杉勢に味方すると見せかけて、北条氏直に従うよう山田右近尉などを調略するも、露見して追放されている。  その後、北条氏直に仕えたが、1584年には5000石として徳川家康の家臣となって落ち着いた。  ただ、これらの別行動は、真田昌幸が他国の情報を得る為、わざと弟・真田信尹にその役目を行わせたとも考えられ、もちろん真田家じたいの生き残り策り1つとも受け取れる。 […]

  • […] その後は、一旦上田城に入るも真田昌幸らとは別行動を取っている。 北信濃においては牧之島城にて上杉勢に味方すると見せかけて、北条氏直に従うよう山田右近尉などを調略するも、露見して追放されている。 その後、北条氏直に仕えたが、1584年には5000石として徳川家康の家臣となって落ち着いた。 ただ、これらの別行動は、真田昌幸が他国の情報を得る為、わざと弟・真田信尹にその役目を行わせたとも考えられ、もちろん真田家じたいの生き残り策り1つとも受け取れる。 […]

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