文禄・慶長の役と陣跡
全国統一を果たした豊臣秀吉は明の征服を試み、その先導を朝鮮に求めたが拒否された。
そこで、朝鮮の制圧を目指して1592年(文禄元年)と1597年(慶長2年)の2度にわたりのべ約30万人もの大軍を派遣した(文禄・慶長の役)。
この文禄・慶長の役において、豊臣秀吉は朝鮮への出兵の本拠として、松浦半島北端のさびれた名護屋の地に名護屋城(佐賀県唐津市)が築いた。
この名護屋の地には、豊臣秀吉の命令の下、全国各地から160以上の大名が兵を率いて集まり陣屋を構え、城下町も造られた。
一寒村に過ぎなかった名護屋の地は、きわめて短期間のうちに、名護屋城を中心に陣屋や城下町からなる巨大都市に変貌した。
本拠となった名護屋城は、1591(天正19)年10月から九州の諸大名を動員してわずか5カ月で完成し、その規模は大坂城(大阪市中央区)に匹敵するほどであったという。
その築城経緯や構造・整備状況については以下の記事を参照いただきたい。
・真田一族と朝鮮出兵~「名護屋城」への在陣~
・真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子が在陣した「名護屋城」~構造・整備状況を中心に~
現在、名護屋城跡の周辺には、150ヶ所以上の陣跡が確認されており、そのうち23ヶ所の陣跡が国の特別史跡に指定されている。
特別史跡指定の陣跡の概要
特別史跡に指定されている23ヶ所の諸大名の陣跡について、文禄・慶長の役時の石高、率いた兵力、陣跡の場所、規模、遺構等の概要を整理すると以下のとおりである。
【1 前田利家(まえだ としいえ)陣跡】
加賀国(石川県)金沢城主100万石、兵力8,000、名護屋城に隣接する標高約76mの丘陵上に位置、約13ヘクタールの広大な規模、石垣・土塁・曲輪が残存。
2025(令和7年)の発掘調査で堀・石垣の一部、掘立柱建物跡・池泉(ちせん)跡・雪隠(せっちん)跡・石組み井戸跡・旗立石(はたたていし)が発見。
【2 徳川家康(とくがわ いえやす)陣跡】
武蔵国(東京都)江戸城主240万石、兵力1万5,000、名護屋城の東北約700mの名護屋浦の西岸に位置、その東側にも別陣が所在、石垣・堀が残存。
【3 小西行長(こにし ゆきなが)陣跡】
肥後国(熊本県)宇土城主24万石、兵力7,000、前田利家陣の東に位置、石垣、曲輪が残存。
【4 堀秀治(ほり ひではる)陣跡】
越前国(福井県)北ノ庄城主18万石、兵力3,000、名護屋城の西南、標高約52mの丘陵上に位置、丘陵全体を占める約10㎡に及ぶ規模、石垣・土塁・曲輪・堀・旗立石が残存。
発掘調査で能舞台跡・茶室跡・飛石・手水石(ちょうずいし)等が発見、全ての部分が整備された唯一の陣跡。
【5 豊臣秀保(とよとみ ひでやす)陣跡】
大和国(奈良県)郡山城主110万石、兵力1万、名護屋城から約1.3㎞の串浦の入江を臨む標高約65mの丘陵上に位置、20ヘクタールを超える陣跡中で最大の規模、石垣・土塁・曲輪・堀が残存。
1976年(昭和51年)からの発掘調査で良好な状態で保存されてきた縄張りや建物跡等の遺構が確認。
【6 加藤清正(かとう きよまさ)陣跡】
加藤清正は肥後国熊本城主19万5,000石、兵力8,000、名護屋城から西方向の約600mの丘陵上に位置、曲輪が残存。
【7 福島正則(ふくしま まさのり)陣跡】
伊予国(愛媛県)今治城主11万石、兵力5,000、加藤清正陣跡から北西方向約300mの標高約52mの丘陵上に位置、石垣・旗立石が残存。
【8 九鬼嘉隆(くき よしたか)陣跡】
志摩国(三重県)鳥羽城主3万5,000石、兵力1,500、名護屋城北方の内陸部に位置、旗立石が残存、公園として整備。
【9 上杉景勝(うえすぎ かげかつ)陣跡】
越後国(新潟県)春日山城主90万石、兵力5,000、名護屋城北方の内陸部の西へ伸びる丘陵に位置、石垣・土塁・曲輪が残存、私有地(畑)のため見学困難。
【10 島津義弘(しまづ よしひろ)陣跡】
大隅国(鹿児島県)栗野城主・兵力1万、波戸岬(はどみさき)の西へ張り出した岬に位置、石垣・曲輪が残存。
【11 黒田長政(くろだ ながまさ)陣跡】
豊前国(福岡県・大分県の一部)中津城主16万石、兵力6,000、名護屋大橋東詰の南側の丘陵に位置、石垣・土塁・曲輪が残存。
【12 毛利秀頼(もうり ひでより)陣跡】
信濃国(長野県)飯田城主10万石、兵力1,000、黒田長政陣の東、伊達政宗陣の南に位置、土塁・曲輪が残存。
【13 木下利房(きのした としふさ)陣跡】
若狭国(福井県)高浜城2万石、兵力、名護屋城から南方約3.5kmに位置、石垣・土塁・曲輪・堀が良好に残存。
【14 加藤嘉明(かとう よしあき)陣跡】
淡路国(兵庫県)志知城主1万5,000石・兵力1,000、呼子大橋の架かる岬の先端に位置、石垣・土塁・曲輪・井戸が残存、公園として整備され井戸・石垣の一部が展示。
【15 長谷川秀一(はせがわ ひでかず)陣跡】
越前国東郷15万石、兵力5,000、木下利房陣と隣接して位置、石垣・土塁・曲輪が良好に残存。
【16 古田織部(ふるた おりべ)陣跡】
瓶原(奈良県木津川市)・井戸堂(奈良県天理市)で8,000石、兵力300、名護屋城の南の標高約50mの丘陵の北端に位置、石垣・曲輪が残存。
【17 鍋島直茂(なべしま なおしげ)陣跡】
肥前国(佐賀県)龍造寺(りゅうぞうじ)家重臣3万石、兵力1万、豊臣秀保陣の南東に位置、石垣・土塁・曲輪が残存。
【18 徳川家康別陣跡】
名護屋浦東岸の徳川家康陣(本陣)の対面に位置、石垣・土塁・曲輪・堀が残存。
【19 片桐且元(かたぎり かつもと)陣跡】
当時の所領は不明、兵力200、加藤清正陣の東側に位置、石垣・土塁・曲輪が残存。
【20 木下延俊(きのした のぶとし)陣跡】
播磨国(兵庫県)三木郡内で2万石、兵力250、名護屋城の南方に位置、名護屋城博物館の野外展示施設として石塁が点在・飛石やトイレ跡等が展示。
【21 生駒親正(いこま ちかまさ)陣跡】
讃岐国(香川県)高松城主17万3,000石、兵力不明、波戸岬の円形の小高い丘に位置、石垣・土塁が残存。
【22 木村重隆(きむら しげたか)陣跡】
越前国府中12万石、兵力3,500、加藤清正陣の南東、片桐且元陣の南西に位置、石垣・土塁・曲輪が残存。
【23 伊達政宗(だて まさむね)陣跡】
陸奥国岩出山(宮城県)城主58万石、兵力1,500騎、名護屋城の北西、名護屋大橋近くの小丘に位置、土塁が残存、未整備。
以上の23ヶ所に陣を構えた大名のうち、渡海したものは、小西行長(地図の陣番号3、以下数字のみ記す)・加藤清正(6)・福島正則(7)・九鬼嘉隆(8)・上杉景勝(9)・島津義弘(10)・黒田長政(11)・木下利房(13)・加藤嘉明(14)・長谷川秀一(15)・古田織部(16)・鍋島直茂(17)・片桐且元(19)・生駒親正(21)・木村重隆(22)・伊達政宗(23)の15大名である。
これら渡海した大名と陣跡の位置との関係について、九州や西国の大名を中心とする渡海衆は名護屋城からやや離れた外縁に、東国大名を中心とする渡海しなかった在陣衆は名護屋城の近辺に位置する例が多いことが指摘しされている。
分布・構造・建物等の特徴
名護屋城の周囲には、前述した国の特別史跡23ヶ所の陣屋の他にも130以上の諸大名の陣跡が所在する。
その範囲は、東西が名護屋浦から串浦まで、南が名護屋浦及び外津浦の入江の奥の丘陵、北が串崎・波戸岬・殿ノ浦等の岬の突端に至るまでの限られた狭い地域である。
1593年(文禄2年)夏頃の名護屋城周辺を描写したとされている「肥前名護屋城図屏風」には、諸大名の陣屋がひしめき合うように描かれており、一種異様な空間を醸し出している。
1977年(昭和52年)に佐賀県がおこなった分布調査では、名護屋浦や串浦などに近い防衛上の要所には、大規模で複雑な縄張りをもつ陣屋が配置されていたことが確認されている。
例えば、最大の規模を誇り、城のような構造を有する豊臣秀保の陣屋は、串浦の入江を臨む所に位置しており、西辺を守備する目的があったものと考えられている。
また、徳川家康の陣屋も大規模であるとともに、本陣と別陣が名護屋浦の入口部を両岸から挟むように位置し、波戸岬突端に近い島津義弘の陣屋、名護屋浦の黒田長政の陣屋も防衛上の要所に位置する。
陣屋の構造は半恒久的な施設を備えた館に近いもので、縄張りは大まかに単郭式・連郭式・渦郭式(かかくしき)の3種類が認められている。
単郭式は方形または長方形で、1ヶ所に虎口(こぐち・城の入口)を設け、虎口付近が枡形(ますがた)構造になっている陣屋もいくつかある。
単郭式の陣屋は名護屋城の南側近辺に多くが分布しており、東国大名の陣屋の多くが単郭式であったと考えられている。
連郭式は、方形または長方形の曲輪が複数連結されたもので、それぞれの曲輪が直接つながっているもの、一定幅の通路で結ばれたものなど様々な形式の陣屋が確認されている。
連郭式の陣所は、名護屋城の陣所の中では最も多く、その分布は名護屋城の外縁部、特に北側の海に面した岬や入江の近くや、南側の外れに多いことから、西国大名の陣屋が該当すると考えられている。
渦郭式は、方形の主曲輪の周囲に、帯曲輪が一段低くめぐるものだが、細川忠興の陣屋など2・3例が確認されているだけである。
陣屋の建物については「肥前名護屋城図屏風」に茅葺きや檜皮葺(ひわだぶ)き、御殿風・数奇屋(すきや)風等の建物が描かれている。
そのうち、規模が大きい上杉景勝・徳川家康などの陣屋は建物の数が多く、入母屋(いりもや)造りの主殿を中心に切妻造りの建物がいくつか建ち並ぶ。
その中でも、豊臣秀保の陣屋は瓦葺きで楼閣風の二層櫓と、その右側に8棟の檜皮葺屋根の殿舎群が描かれている。
豊臣秀保陣跡からは、1978年(昭和53年)~1980年(昭和55年)に実施された発掘調査において、「肥前名護屋城図屏風」にみられる建物配置と酷似した遺構が検出されている。
今後、他の陣屋についても発掘調査の成果と絵図類等とを照合・分析することで、新たな知見が得られることと考える。
名護屋城周辺に残る150ヶ所以上の陣跡は、文禄・慶長の役の期間(1592年~1598年)に全国から集まった諸大名が構えた陣跡として、日本の歴史上あるいは日韓交流の歴史にとってもきわめて価値が高い史跡である。
こうした貴重な陣跡を観光資源としてではなく、先人たちが守ってきた貴重な文化財として次世代に残すことが重要であると考える。
<主な参考文献>
・中井 均 2021年『秀吉と家臣団の城』株式会社 KADOKAWA
・平井 聖、他 1980年『日本城郭体系 第17巻 長崎・佐賀』新人物往来社
・宮武 正登 1996年「『肥前名護屋図』屏風を読む」『城郭研究最前線』新人物往来社
・名護屋城とは|佐賀県立 名護屋城博物館~
(寄稿)勝武@相模
・【豊臣秀吉と城】文禄・慶長の役と壱岐・対馬の城~勝本城と清水山城の歴史的意義を探究する~
・【豊臣秀吉と城】倭城が「近世城郭」に与えた影響を探究する~立地・石垣・瓦を中心として~
・【豊臣秀吉と城】倭城の特徴と性格を探究する~織豊系城郭の特徴との違いに注目して~
・【豊臣秀吉と城】朝鮮出兵における倭城を探究する~位置・規模から考える倭城の機能・役割~
・【豊臣秀吉と城】豊臣秀吉晩年の城「京都新城」を探究する~史料・絵画類、発掘調査の成果から~
・【戦争と城】太平洋戦争で失われた城を探究する~空襲・原爆投下で被災した旧国宝天守を中心として~
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