羽柴秀吉の中国攻め
織田信長の命で中国地方に進軍を続ける羽柴秀吉。
1580年(天正8年)1月に播磨国・三木城を平定後、但馬・因幡の平定へ向かった。
羽柴軍が因幡国・鳥取城を包囲して3ヶ月後。
因幡国守護職で城主の山名豊国が単独で降伏を申し出た。
しかし、この降伏は徹底抗戦を主張する重臣らの意見を無視した独断の行動であったため、山名豊国は城を追放されてしまった。
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1581年(天正9年)5月
城主を失った鳥取城だったが、毛利方への従属を推す重臣の訴えにより、毛利氏の家臣で石見吉川家当主・吉川経安の嫡男・吉川経家が新城主として迎え入れられた。
この吉川経家には、自分の家臣らと共に入城した際、覚悟を示すため自らの首桶を持参したという逸話が残っている。
山名豊国が降伏したにも関わらず、毛利方の吉川経安が新城主となったことで織田信長との敵対関係を明確にした山名の旧臣。
羽柴秀吉は、再び鳥取城包囲へと動き出した。
地獄絵図
籠城戦にむけて1400の兵が集められると武器や備蓄の準備が行われた。
しかし、備蓄米が全く足りていないという最悪の事態が発覚した。
原因として戦や略奪で田畑が荒廃していたのもあるが、そこには羽柴秀吉による攻城戦の周到な準備がされていた。
羽柴秀吉は、兵糧攻めを見越して周辺の米を通常の倍以上の値段で買い上げることで城内の備蓄米を最小限に留めただけでなく、周辺の村を襲撃して村民2000人を城へと追い込み兵糧の消費を加速させようとした。
また、鳥取城周辺で略奪・苅田が計画的に行われたことで田畑は荒廃し、収穫は大幅に減少していた。
兵糧不足を改善しようとした吉川経家。
吉川元春に兵糧支援を要請して陸と海からの補給路構築に奔走した。
しかし、羽柴秀吉は2万の軍勢で到着すると鳥取城周囲に約70の陣城を設けて柵や土塁を築き鳥取城の周囲を包囲、河口には軍船を配置したことで毛利からの兵站は完全に断ち切られてしまった。
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鳥取城を完全に包囲した羽柴軍による激しい城攻めは終日行われた。
日が経つにつれて、城内の兵は疲労と睡眠不足、更に飢えも重なり疲弊しきっていた。
また、1ヶ月もすると兵糧が底をつき体力のない者から次々と倒れていった。
現状から逃れるため城外へ出ようと者もいたが、鉄砲の餌食となり命を落とした者も後を絶たなかった。
羽柴秀吉は、飢えだけでなく精神的に打撃を与えることで、兵糧攻めを短期間で終わらせようとしていたのだ。
籠城から4ヶ月後、軍馬、家畜、木の根などの植物も食いつくされてしまった。
食料も尽きて餓死者が続出するも埋葬の余裕などなく、そのまま放置されていた。
やがて、飢えに耐えかね限界を超えた人々。
最終的に人間を食べるという異常行動へといたった。
傷ついて動けなくなった人、子が親、弟が兄など、生き延びるために人が人を食べる地獄絵図「鳥取の飢え殺し」の光景が広がっていたのだ。
このことは「信長公記」や「豊鑑」などにも記載されている。
一方、羽柴秀吉は遊女を呼んで兵を慰労、毎晩のように宴を開くなどにより、兵の士気は大いに上がっていた。
これが流布すると周辺の住民が物を売りに来るようなり、羽柴陣内で経済が回り始めると鳥取城内と真逆の賑わいを見せていた。
城内の惨状を知った城主・吉川経家は、何度も降伏を申し出ようとしたが、旧山名家臣団の強い抵抗により我慢を強いられていた。
しかし、これ以上の籠城は無意味と決断して羽柴秀吉へ降伏を申し出た。
城主・吉川経家および主たる家臣の切腹、その他の兵や農民の命を嘆願を降伏条件とした。
しかし、羽柴秀吉からの返答は、旧山名家臣団の切腹と吉川経家が織田の臣下として加わることだった。
交渉は何度も繰り返されたが、吉川経家は自害を譲ろうとすることはなかった。
最終的に羽柴秀吉が折れ、吉川経家と旧山名家臣団の自決で開城となった。
吉川経家 享年35
開城後、羽柴秀吉は吉川経家との約束を守るため、城内の兵や農民に粥などの食事を惜しみなく振舞った。
しかし、食事後に次々と命を落とすという謎の現象が発生した。
これは極限の飢餓状態だった人々が、急激に大量の食事を取ったことによるショック状態(代謝合併症)でリフィーティング症候群と言われている。
これにより城内生存者の大半が亡くなるという悲惨な状態となり、この大量死についても「信長公記」「豊鑑」に記載されている。
山名豊国
羽柴秀吉へ単身で降伏を申し出て城を追放された旧・鳥取城主・山名豊国。
鳥取城の城攻めに加わった後、秀吉への仕官を断り浪人となった。
その後、徳川家康からの知遇を得て、豊臣秀吉からも朝鮮出兵の際に九州肥前名護屋城への同行を命じられた。
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関ヶ原の戦いでは、徳川方の東軍に付いて参戦。
1601年(慶長6年)関ケ原での活躍が認められ、但馬国内の一郡6700石を領した。
徳川家康・秀忠から信頼され茶会などにも呼ばれていたが、大名になることはなかった。
享年79
(寄稿)まさざね君
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