角田新右衛門【真田家に寝返った斎藤家の忍者】

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 角田新右衛門(つのだしんえもん)は、1563年9月中旬に武田信玄より命じられて岩櫃城を攻略していた真田幸隆や軍監として参加していた武藤喜兵衛昌幸(真田昌幸)に関連する忍者として知られる。

 この時、真田幸隆は難攻不落の岩櫃城を攻略する為、岩櫃城主・斎藤憲広の甥・斎藤則実(斎藤弥三郎則実)や、重臣・海野幸光と海野輝幸の兄弟など調略して武田家に内通させた。

 そして、真田幸隆は岩櫃城の城内の内通者と連携して攻撃開始しようとしたが、城内との連絡が取れず、なかなか攻撃開始することができずにいた。

 城内には裏切者がたくさんいると薄々感じていた角田新右衛門は、いつ逃げ出そうかと隙を伺っていたと言う。
 しかし、斎藤憲広は内応者がいることに全く気づいていない様子だった。




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 真田幸隆らがなかなか攻撃してこない事に対して、斎藤憲広は、真田勢が武田信玄の本隊到着を待っている可能性があると考え、忍者を使って真田勢の陣を偵察させることにしたのだ。
 甥・斎藤則実を呼ぶと、角田新右衛門を城から出して偵察させるようにと命じたのだ。

 甥・斎藤則実は真田幸隆への連絡が取れると言う好機でもあり、角田新右衛門にとっても城から抜け出せるだけでなく、内応者と真田勢との連絡係を務める事で、あわよくば恩賞にもありつけるチャンスが回ってきたのだ。

 こうして、角田新右衛門は斎藤則実の書状を預かって岩櫃城を出て、大竹に陣を貼っていた真田の本陣に駆け込んだ。
 そして、角田新右衛門は、城に戻ったら海野幸光と海野輝幸の兄弟と共に火を放つので、それを合図に攻め込みなされと言ったと言う。
 これに対して真田昌幸は、金子10両を与え、さらに斎藤憲広を討ち取った際には知行地を与える事も約束したとされる。

 喜び帰城すると10月13日の夜半に海野兄弟らと曲輪に火を放ち、岩櫃城を落城へと導いた。
 しかし、斎藤憲広は越後の上杉謙信を頼って逃亡している。 

 厳密に言うと、真田家の忍者とは言えないかも知れないが、真田幸隆の岩櫃城攻めの際に、真田家に寝返った忍者と言う事でご紹介させて頂いた。

 なお、角田新右衛門にその後、恩賞などが与えられたかの記録は残っていない。