投稿者: 勝武@相模

真田父子も築城にかかわった「伏見城」の遺構 ~発掘調査状況と移築建造物の現状から~

はじめに豊臣秀吉が晩年の城郭である「伏見城」(「指月伏見城」と倒壊後の「木幡山伏見城」)の築城には、真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子もそれぞれ人夫や用材などを負担するなど築城に関わった。その経緯については豊臣秀吉晩年の城・「伏見城」~築城経...

真田一族と朝鮮出兵~「名護屋城」への在陣~

朝鮮出兵の概要全国統一を果たした豊臣秀吉は明の征服を試み、1587(天正15)年、対馬の大名・宗義智を通して朝鮮に入貢と明への出兵の先導を命じたが拒否された。秀吉は肥前(佐賀県)の東松浦半島の北端に「名護屋城」(佐賀県唐津市)を築き、そこを...

真田信繁(真田幸村)ゆかりの「春日山城」の諸問題~構造(縄張)と調査・整備状況から~

「春日山城」の構造(縄張)現在、「春日山城」の遺構は春日山を中心に60万㎡以上の面積に広がり、きわめて大規模なものである。標高約180mの山頂の「実城」(本丸)を核とする本城地区を中心に、その周囲の4㎞内を固めている砦・番所地区、城内家臣屋...

真田信繁(幸村)が人質・家臣として過ごした「春日山城」~人質の経緯と「春日山城」の概要~

武田氏滅亡後の真田氏の動向と信繁真田信繁の父・真田昌幸は1582(天正10)年3月に武田家が滅亡すると織田信長に服属した。昌幸は信濃佐久・小県2郡と上野国を管轄した滝川一益の与力となり、「厩橋城」に母・恭雲院と次男で当時11歳の弁丸(信繁)...