概要
全国統一を果たした豊臣秀吉は明の征服を意図し、その前段階として1592年(文禄元年)に小西行長(こにし ゆきなが)・加藤清正(かとう きよまさ)らの約16万の大軍を朝鮮に派遣した(文禄の役)。
日本軍は朝鮮半島全域に侵攻するが、朝鮮民衆や朝鮮水軍、明の援軍などに阻まれ、小西行長らは講和交渉を進めた。
この交渉は決裂し、豊臣秀吉は1597年(慶長2年)、再び約14万の大軍を派遣した(慶長の役)。
しかし、当初から苦戦を強いられ、翌1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が没すると全軍が撤退した。
この文禄・慶長の役では、出兵の本拠である肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に加えて、朝鮮半島南岸に在地支配の拠点(「御仕置之城」)となる日本式の城(「倭城」)が築かれた。
現在も大韓民国の慶尚南道(けいしょうなんどう)、全羅南道(ぜんらなんどう)の約30カ所に倭城の跡が残る。
この倭城の所在地や築城年、築城者、特徴などについては以下のサイトが詳しい。
・【豊臣秀吉と城】朝鮮出兵における倭城を探究する~位置・規模から考える倭城の機能・役割~
こうした倭城では、慶長の役において、蔚山(いさん)城・順天(じゅんてん)城・泗川(そせん)城などで激しい戦いが繰り広げられたが、その中で最大の激戦が「蔚山籠城戦」として名高い蔚山城の戦いである。
本稿では、蔚山城の戦いの背景や経緯、影響などについて朝鮮に出兵した武将の動向などと関連付けながら探究する。
蔚山城の築城
日本と明との和平交渉が決裂すると、豊臣秀吉は1597年(慶長2年)、朝鮮への再出兵を命じ、慶長の役が始まった。
釜山(ふさん)周辺に布陣していた日本軍は、明・朝鮮軍を破って全羅道(ぜんらどう)・忠清道(ちゅうせいどう)の制圧を目指して進撃した。
戦線が拡大すると、日本軍は朝鮮半島沿岸部に移動し、越冬のために8城を新たに築いた。
蔚山城・梁山(りゃくさん)城・馬山(ちゃわん)城・見乃梁(けんりょう)城・固城(こそん)城・泗川城・南海(なむはい)城・順天城の8城である。
また、文禄の役の際に築かれた倭城のうち、西生浦(せっかい)城・釜山浦(ふさんかい)城・金海竹島(きんむい)城なども修復、防御が強化された。
それらのうち、蔚山城は海岸より西方に約10kmさかのぼった川の合流点の標高約50mの独立丘陵上に築かれた。
頂上の総石垣で囲まれた本丸、その北側に一段低く二の丸、その北西側の突出した部分に三の丸が配され、さらにその外側に総構(そうがまえ)があった。
「蔚山之御城出来仕目録」(『浅野家文書』所収)によると、その規模は、本丸・二の丸・三の丸の石垣全長が約1.4km (「776間2尺」)、櫓(やぐら・「居矢倉」)が大小合わせて12棟あり、門と櫓を合わせた塀の長さが約632m (351間2尺)、惣構の塀が約2.6km (「1430間」とある。
また、二の丸・三の丸には、冠木(かぶき)門が4棟、城中に大小の仮小屋が4棟あることが記されている。
「蔚山城ノ防禦(ぼうぎょ)図」(埼玉県立博物館蔵)には、蔚山城の山麓の東側に西部洞(とう)城、最東端には東部洞城が描かれている。
この2つの城が惣構の範囲であり、特に東部洞城は東端の東川に臨む標高約20mの丘陵上に位置する。
その位置から、東部洞城は敵の襲来を防ぐ最前線であるとともに、物資搬入口である河川ルートの安全確保を担う重要な役割があったと考えられている。
蔚山城の築城は、1597年(慶長2年)11月中旬から、加藤清正(かとう きよまさ)が縄張りをおこない、浅野幸長(あさの ゆきなが)、毛利秀元(もうり ひでもと)の属将である宍戸元続(ししど もとつぐ)、そして太田一吉(おおた かずよし)が築城工事(「普請」)を担った。
築城工事の様子は、太田一吉の医僧として従軍した慶念(けねん)が記した陣中日記『朝鮮日々(にちにち)記』から知ることができる。
それによると、築城工事には鉄砲衆から船子(ふなこ)・人足にいたるまであらゆる労働力が動員され、昼夜を問わない突貫工事により、わずか40日ほどで完成に近づいたという。
蔚山城の戦い
1597年(慶長2年)12月22日未明、完成間近であった蔚山城に6万といわれる明・朝鮮の大軍が押し寄せた。
守将の浅野幸長や、西生浦城から救援に駆け付けた加藤清正らの日本軍は、惣構を突破され城内へ退いた。
明・朝鮮軍は蔚山城を包囲して、籠城する日本軍に執拗(しつよう)に攻撃を加えた。
この包囲の様子や城内の状況は江戸時代後半(18~19世紀)に作成された「蔚山城合戦図屏風」に描かれている。
・「蔚山城合戦図屏風 文化遺産オンライン」
明・朝鮮軍による包囲に対して、未完成の蔚山城は備蓄が十分でなく、兵糧と水が欠乏し、朝鮮側に投降する兵士が相次ぐなど籠城は極めて過酷なものであったという。
前述した慶念の『朝鮮日々記』は「此の城難儀ハ、三ツにきわまれり、さむさ、ひだるさ、水のミたさ」と、冬の寒さと飢えに苦しむ城内の悲惨な状況を伝えている。
ほかの史料からも、紙を食い、衣服を雨で濡らしてそれをすすり、夜中に城外へ出て敵の屍(しかばね)から食糧を奪ったこと、激しい氷雨の中、指を落としたり銃を持ったまま凍死したりする者が相次いだことなどが知られる。
この間、明・朝鮮軍は岡本越後守(おかもと えちごのかみ)という人物を蔚山城へ派遣して開城の申し入れなどの降伏勧告をおこなっている。
使者の岡本越後守は明へ投降した将兵(「降倭」)の一人で、もとは加藤清正の部将であったという。
12月29日、加藤清正は城内の慎重論を退けて講和交渉に応じることを決断するが、結果的にこの交渉は実現しなかった。
こうした蔚山城の危機的な状況は日本の諸将に伝えられ、蔚山城を救援するために、黒田長政(くろだ ながまさ)・毛利秀元・蜂須賀家政(はちすか いえまさ)らの軍勢が西生浦に集結した。
1598年(慶長3年)1月2日、毛利秀元らの救援軍は陣立(じんだて)を定め、蔚山城を包囲する明・朝鮮軍に迫った。
蔚山城を開城できなかった明・朝鮮軍は、1月4日未明に救援軍に総攻撃を仕掛けるが撃退され、夜が明けるころ明・朝鮮軍は城の囲みを解いて退却を始めた。
日本軍の追撃により、明・朝鮮軍は大混乱となり、多くの兵糧や武器が放棄され、極寒のなか甲冑を脱ぎ捨てて裸身で逃亡する兵もいたという。
蔚山城の攻防戦では、明・朝鮮軍の死者は約2万人、負傷者も数千人を数え、加藤清正の家臣が1月19日付で作成した「城廻り敵死骸数の事」に「合、壱万三百八拾六人」とあるように、約1万余りの死体が遺棄されたという。
明・朝鮮軍の撤退後、加藤清正らの籠城軍と毛利秀元ら救援に駆け付けた諸将との間で、敵を慶州まで追撃するか否かが議論されたが、兵糧不足を理由に追撃は見送られた。
1598年(慶長3年)8月、明・朝鮮軍は明本国からの増援を得て、約10万の大軍で日本側の拠点を攻略する計画を立てた。
その計画は、蔚山城攻めの失敗を踏まえ、日本軍が相互に救援できないよう、東路軍・中路軍・西路軍の3軍と水軍に分け、東路軍は蔚山城、中路軍は泗川城、西路軍は順天城を同時に攻撃するというものである。
同年9月22日、約29,500人の明・朝鮮軍(東路軍)は、蔚山城を攻撃するが、加藤清正を守将とする日本軍の反撃により明・朝鮮軍の被害は増え続けた。
守将の加藤清正は籠城の準備を十分に重ね、固く守備を固めていたため、明・朝鮮軍は攻めきれず、10月6日に蔚山城から撤退した(「第二次蔚山城の戦い」)。
この第二次蔚山城の戦いに先立つ8月18日に豊臣秀吉は死去しており、その死は秘匿されたまま10月15日、朝鮮に在陣の諸将に帰国命令が発せられた。
これにより、加藤清正は11月18日に蔚山城から撤退し、11月23日、加藤清正は釜山(ぷさん)を発し帰国の途についた。
それ以降、小西行長らの朝鮮在陣の諸将も逐次、日本へ帰国し、文禄・慶長の役は終結した。
蔚山城の戦いの影響
蔚山城の戦い後、宇喜多秀家・毛利秀元・蜂須賀家政(はちすか いえまさ)らの諸将は、陣容の立て直しについて協議をおこなった。
朝鮮に在陣の諸将は悲惨な籠城戦を経験したことで、蔚山城・順天城・梁山城の3ヶ所の城を放棄して戦線を縮小するという案をつくった。
しかし、この縮小案の報告を受けた豊臣秀吉は消極的な案であると激怒して3ヶ所の城の放棄を認めなかった。
結局、黒田長政が守る梁山城だけが放棄を認めら、黒田長政は亀浦(かとかい)城に移された。
豊臣秀吉の不興を買った諸将のうち、蜂須賀家政・早川長政(はやかわ ながまさ)・竹中重利(たけなか しげとしげ)・毛利高政(もうり たかまさ)が帰国の上、領国での謹慎が命じられた。
一方、豊臣秀吉に報告をした軍目付(いくさめつけ)の福原長堯(ふくはら ながたか)・熊谷直盛(くまがい なおもり)・垣見一直(かきみ かずなお)は褒賞を与えられた。
この処分と褒賞に対して、蜂須賀家政・黒田長政・加藤清正らは、この査定に福原長堯ら軍目付3人と親しい石田三成(いしだ みつなり)が関わったとみて反発を強めた。
これにより、加藤清正らの武断派と石田三成ら文治派の対立は決定的なものとなり、豊臣秀吉没後の1599年(慶長4年)3月、加藤清正・黒田長政らの武断派の大名7名は石田三成を失脚させるに至った(「七将襲撃事件」)。
この事件は、五大老筆頭の徳川家康が調停をおこない、石田三成の隠居と蔚山城の戦いの論功行賞を見直すことで終結させた。
石田三成の失脚後、徳川家康を中心とする五大老は、蜂須賀家政・黒田長政らの蔚山城救援諸将には、落ち度はがなかったと裁定し、処分の撤回と名誉回復の処置がとられた。
一方、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直らは軍目付として「私曲」があったとし改易などの重い処分に課させられた。
蔚山城の戦いは、極めて困難な状況に置かれた日本軍が明・朝鮮軍の猛攻を防ぎきったという文禄・慶長の役における最大の激戦であった。
特に、第二次蔚山城の戦い(1598年9月~10月)で明・朝鮮軍を撃退したことは、朝鮮半島東部に展開していた日本軍の撤退を容易にしたと考えられる。
それに加えて、蔚山城の戦い(1597年12月~1598年1月)の論功行賞をきっかけに、武断派と文治派の対立が激化し、このことが1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの一因になるなど、豊臣秀吉没後の政局にまで大きな影響を及ぼしたのである。
現在、蔚山城跡は鶴城公園としてハイキングコースが整備され、健康器具もあり市民の憩いの場となっている。
西側山麓の北端に入口があり、そこを上ると三の丸跡から旧天守台の西側を経て本丸に至る。
本丸に残る一部の石垣が、過酷な籠城戦がおこなわれた蔚山城の雄姿を今に伝える。
<主な参考文献>
・池上 裕子 2002年『日本の歴史 第15巻 織豊政権と江戸幕府』講談社
・織豊期城郭研究会 2014年『倭城を歩く』サンライズ出版株式会社
・中井 均 2021年『秀吉と家臣団の城』株式会社 KADOKAWA
・中野 等 2008年『戦争の日本史 文禄・慶長の役』吉川弘文館
・
(寄稿)勝武@相模
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