概要
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は明征服の先導を拒否した朝鮮を制圧するために、1592年(文禄元年)と1597年(慶長2年)の2度にわたりのべ約30万人もの大軍を朝鮮へ出兵した(文禄・慶長の役)。
この朝鮮出兵の本拠として、豊臣秀吉は佐賀県唐津に名護屋城(なごやじょう)を築き、その城で指揮をとった。
1592年(天正20年)年3月26日、豊臣秀吉は京都の聚楽第(じゅらくてい・京都市上京区)を発ち、西岡の乙訓(おとくに)神社(京都府長岡京市)で戦勝祈願をおこない、西国街道を西へ向かった。
その後、兵庫・明石・姫路・赤穂・片上・岡山・矢掛(やかげ)・三原・西条・広島・小方(おがた)・玖珂(くが)・花岡・山中・埴生(はぶ)・赤間関(あかまがせき)・小倉・芦屋・宗像(むねかた)・名島・深江を経て、約1ヶ月後の同年4月25日、豊臣秀吉は名護屋城に到着した。
豊臣秀吉が通った京都から名護屋城間の街道上には、屋根に金箔瓦(きんぱくがわら)を施した城や寺社が所在する。
乙訓神社に隣接する興隆寺(こうりゅうじ)、大山崎の離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)、高槻城(たかつきじょう)、岡山城、広島城、厳島神社(いつくしまじんじゃ)、小倉城(こくらしろ)であるが、こうした城や寺社の跡地からは金箔瓦が出土している確認されている。
金箔瓦は、屋根瓦の表面に漆(うるし)を塗り、その上に金箔を貼り付けたもので、織田信長(おだ のぶなが)が安土城(あづちじょう・滋賀県近江八幡市)においてはじめて使用し、豊臣秀吉も大坂城(大阪市中央区)をはじめ主要な城で使用した。
本稿では、京都から名護屋城間の街道上に位置する金箔瓦が使用されている城や寺社の概要や金箔瓦の特徴などについて整理する。
その上で、それらの城や寺社で金箔瓦が使用された背景について、豊臣秀吉の金箔瓦使用の許認可と関連付けながら探究する。
名護屋城までの金箔瓦の城・寺社
京都から名護屋城間の街道上において、金箔瓦が使用されている城や寺社の概要や金箔瓦の状況などを整理すると以下のようになる。
【1. 聚楽第】京都市上京区
聚楽第は、豊臣秀吉が1586年(天正14年)、大内裏(平安宮)の跡地(当時は「内野」と呼称)に築いた京都における居城である。
聚楽第跡からは、これまで周辺の大名屋敷跡も含めて、軒丸瓦(のきまるがわら)・軒平(のきひら)瓦・鬼瓦などに金箔を貼った瓦(金箔瓦)が大量に出土している。
<参考サイト>
・「京都府聚楽第跡出土金箔瓦 文化遺産オンライン」
【2. 興隆寺】京都府向日(むこう)市
正式名称は「鶏冠井興隆寺(かいでこうりゅうじ)」で、日蓮宗の寺院で天正末年(1590年頃)に創建されたと伝わる。
開祖の日堯(にちぎょう)が京都の妙顕寺(みょうけんじ)の管主であったことから豊臣秀吉の庇護を受け、
寺跡からは金箔軒丸瓦が出土している。
<参考サイト>
・「興隆寺跡出土 金箔軒丸瓦 文化遺産オンライン」
【3. 離宮八幡宮】京都府乙訓郡大山崎町
859年(貞観2年)、「石清水(いわしみず)八幡宮」として創建され、後に「離宮八幡宮」と改称された。
境内の池跡から入母屋(いりもや)屋根の大棟の端を飾ったと考えられている大型の金箔鬼瓦や金箔軒丸瓦が出土している。
離宮八幡宮は山崎の戦い(1582年)の際、豊臣秀吉の本陣となった場所であり、出土した金箔瓦は、豊臣秀吉が京都に造営した聚楽第や京都新城などに使われていた瓦が、周辺の有力な施設や社寺へ下賜・転用されたものと考えられている。
<参考サイト>
・「離宮八幡宮旧境内出土の鬼瓦 蕨手側面に金箔が残る|大山崎町」
【4. 高槻城】大阪府高槻市
高槻城は京都・大坂から西国へ向かう水陸の要衝に位置し、南北朝時代の入江氏の居館が起源である。
戦国時代末期に城主を務めた和田惟政(わだ これまさ)やキリシタン大名・高山右近(たかやま うこん)が本格的な城郭へと発展させた。
これまでの城跡の発掘調査で、本丸跡からは金箔軒平瓦、二の丸跡からは聚楽第と同じタイプの軒平瓦が出土している。
高槻城には1595年(文禄4年)に豊臣秀吉が信頼する家臣である新庄直頼(しんじょう なおより)が入城しており、金箔瓦はこの時期に使用されたものと考えられている。
<参考サイト>
・北摂唯一の近世城郭 高槻城 – 高槻市ホームページ
【5. 岡山城】岡山県岡山市
岡山城は、1597年(慶長2年)に豊臣秀吉の命を受けた宇喜多秀家(うきた ひでいえ)が近世城郭に築き直した。
金箔瓦は本丸跡や二の丸跡から出土しており、中でも二の丸出土の鬼瓦は、目や歯の部分に金箔が施されている希少なものである。
築城時の岡山城は天守や主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、絢爛豪華な姿を誇示していたものと考えられる。
<参考サイト>
・埋蔵文化財センターの収蔵品
【6. 広島城】広島県広島市中区
広島城は、毛利輝元が1589年(天正17年)から築いた中国地方最大の近世城郭である。
1592年(文禄元年)4月、豊臣秀吉が肥前名護屋城へ向かう途中に立ち寄り、御殿の素晴らしに大変感心したと伝わる(毛利家文書)。
金箔瓦はこれまでの発掘調査で50点ほど出土しているが、特筆すべきは金箔鯱(しゃち)瓦とイタヤ貝の文様を持つ金箔鬼瓦がセットで出土していることである。
金箔鯱瓦は城内の井戸跡から雄・雌の一対がほぼ完全な形で出土し、鰭(ひれ)や牙などの立体的な部分に金箔が施され、顔や鱗は黒いままという対比が美しい意匠(いしょう)をもつ貴重なものである。
<参考サイト>
・おうちでミュージアム | 広島城
【7. 厳島神社大経堂】広島県廿日市(ようかいち)市
厳島神社大経堂は、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)に命じて建立させたが、未完成のまま現在に至る。
厳島神社末社の豊国(とよくに)神社の本殿で「千畳閣」とも呼ばれており、屋根には豪華な金箔瓦(軒丸瓦・唐草瓦)が使用されている。
<参考サイト>
・千畳閣(豊国神社本殿) | 淡路瓦の景観材・壁材・ガーデニング材・エクステリア建材 | 野水瓦産業
【8. 小倉城】福岡県北九州市
小倉城は、史料的には1569年(永禄12年)、中国地方最大の戦国大名である毛利氏が築いたことに始まる。
その後、1587年(天正15年)に豊臣秀吉の家臣である毛利勝信(もうり かつのぶ)が関ヶ原の戦い(1600年)後に改易(かいえき)となるまで城主を務めた。
金箔瓦は、毛利勝信がおこなった整備の中で造られた本丸東石垣の裾部の障子掘から金箔鬼瓦の破片2点が出土している。
<参考サイト>
・ 報告書抄録「小倉城大手ノ勢溜り跡第2地点」
【9. 名護屋城】
名護屋城は文禄・慶長の役に際して朝鮮への出兵拠点として築かれ、その周囲には全国から集まった
160以上の大名の陣屋も構えられた。
金箔瓦は、大坂城に次ぐ規模を誇る5層7階の天守がそびえていた天守台の周辺から多数出土している。
<参考サイト>
・ 1. 特別史跡名護屋城跡並陣跡|佐賀県立 名護屋城博物館
金箔瓦の効果
金箔瓦は、織田信長が安土城で初めて使用し、その後継者である豊臣秀吉も大坂城で初めて使用した。
織田信長の時期は、安土城のほかは織田信忠(のぶただ)の居城・岐阜城(岐阜県岐阜市)、織田信雄(のぶかつ)の居城・松ヶ島(まつがしま)城(三重県松阪市)、織田信孝(のぶたか)の居城・神戸(かんべ)城(三重県鈴鹿市)からしか金箔瓦は出土しておらず、織田信長自身と子息の居城に限定されていたものと考えられる。
豊臣秀吉の時期は豊臣一門や羽柴(はしば)姓や豊臣姓を下賜した有力大名の居城や、関東の徳川家康(とくがわ いえやす)領に接する街道上の城からも金箔瓦が出土しており、金箔瓦の許認可は緩和されていたと考えられる。
前項で整理した京都から名護屋城間の街道上の城や寺社をみると、岡山城は宇喜多秀家、広島城は毛利輝元の居城で、両者は豊臣一門の扱いを受けており、金箔瓦の使用は認められていた。
その一方、豊臣一門の城ではない高槻城と小倉城からも発掘調査によって金箔瓦が出土している。
高槻城は、1592年(天正20年)3月・4月は豊臣家直轄の城であり、小倉城は1587年(天正15年)に小倉6万石を与えられた毛利勝信の居城であった。
厳島神社大経堂は、豊臣秀吉が毎月、千部経(せんぶきょう)を読誦(どくじゅ)することで、九州攻め(1586年~1587年)の戦没将士を慰霊するために建立されたと伝わる。
ちなみに、厳島神社大経堂に用いられた金箔軒丸瓦は「王」の文字を据えたものである。
このことから、豊臣秀吉は九州攻めの段階で明への出兵を考えており、戦没者を慰霊は明への出兵の加護を願う目的もあったとの指摘もある。
なお、名護屋城から南東へ約18km離れた唐津(からつ)城(佐賀県唐津市)においても、石垣再整備に伴う発掘調査で金箔瓦1点が出土した。
この金箔瓦は唐津城跡の東側石垣から出土し、鯱瓦の鰭の部分の可能性があり、豊臣秀吉が唐津城の築城(1608年)以前の唐津を名護屋城の後方拠点にしていた可能性が高いことがと指摘されている。
以上のことから、高槻城・岡山城・広島城・小倉城の金箔瓦は、豊臣秀吉の「御座所(ござしょ)」であることを示すためのものであったと考えられる。
また、興隆寺・離宮八幡宮・厳島神社大経堂の金箔瓦は、民衆に対して朝鮮出兵が国をあげての総力戦であることを示す視覚的効果をねらったものであろうか。
名護屋城へ向けて進む諸大名や、大坂城に来る朝鮮や明からの使者は、街道上の城や寺社の屋根に燦然(さんぜん)と輝く金箔瓦を見てどのように感じたのだろうか、豊臣秀吉の威信を示すことはできたのだろうか。
<主な参考文献>
・池上 裕子 2002年『日本の歴史 第15巻 織豊政権と江戸幕府』講談社
・武井正弘、他 2017年『城郭からみた豊臣秀吉の権力』戦国武将研究会
・中井 均 2021年『秀吉と家臣団の城』株式会社 KADOKAWA
・中野 等 2008年『戦争の日本史 文禄・慶長の役』
・唐津城石垣再築整備事業
(寄稿)勝武@相模
・真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子が在陣した「名護屋城」~構造・整備状況を中心に~
・【豊臣秀吉と城】名護屋城周辺の諸大名の陣跡の解説~国の特別史跡23ヶ所の陣跡の概要を中心に~
・【豊臣秀吉と城】文禄・慶長の役と壱岐・対馬の城~勝本城と清水山城の歴史的意義を探究する~
・【豊臣秀吉と城】倭城が「近世城郭」に与えた影響を探究する~立地・石垣・瓦を中心として~
・【豊臣秀吉と城】倭城の特徴と性格を探究する~織豊系城郭の特徴との違いに注目して~
・【豊臣秀吉と城】朝鮮出兵における倭城を探究する~位置・規模から考える倭城の機能・役割~
・【豊臣秀吉と城】「聚楽第」の大名屋敷を探究する~浅野文庫『諸国古城之図』所収の聚楽第の絵図を資料として~
・【豊臣秀吉と城】幻の城「聚楽第」の構造・建物を探究する~絵画資料・文献史料・考古資料から~