真田信勝(さなだのぶかつ)は、真田昌幸の3男(4男)とも。生年も不明。通称は真田左馬助。
母の名は某氏とあり不詳だが、兄・真田信之、真田幸村とは母が異なり、年齢もかなり離れていたとされている。
江戸幕府が開かれると、弟・真田昌親と同じように徳川家の旗本となったようだ。
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正室は徳川家の古い家臣である牧野康成(牧野半右衛門)の娘だが、この娘はその後、斉藤久右衛門信秋室の継室として名が見られる事から真田信勝とは離縁したようだ。
1605年2月、徳川秀忠の上洛に従って同行した際には、大番組として供奉したことが伺える。
1609年9月、大番頭として徳川秀忠に随行していた膳所城主(旗本)・戸田勝興(戸田半之丞)を、江戸で斬って逐電したとも伝わり、真田勝興と刃傷に及んで斬殺されたとも言われているが、詳細は不明。
引用元:真田信勝
真田信勝・真田左馬助【真田昌幸の3男】
2015.02.27