概要
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は全国統一を果たした後、明の制圧を目指して1592年(文禄元年)と1597年(慶長2年)の二度にわたり朝鮮へのべ約30万人もの大軍を派遣した(文禄・慶長の役)。
この文禄・慶長の役の本拠となった名護屋の地には、名護屋城(佐賀県唐津市)が築かれ、その周辺には全国各地から160以上の大名が兵を率いて集まり陣屋が構えられた。
現在、名護屋城跡の周辺には、150ヶ所以上の諸大名の陣跡が唐津市鎮西町・呼子町、東松浦郡玄海町に及ぶ広範囲に分布する。
・【豊臣秀吉と城】名護屋城周辺の諸大名の陣跡の解説~国の特別史跡23ヶ所の陣跡の概要を中心に~
これらの陣跡の中で最大の規模を誇るのが、豊臣秀保(ひでやす)の陣跡である。
豊臣秀保は豊臣秀吉の姉の3男として生まれ、叔父の豊臣秀長(ひでなが)の養子となって家督を継いだ。
文禄の役(1592年~1593年)のときには、大和国(奈良県)郡山城主110万石の大大名として「大和中納言」と呼ばれていた。
1万の兵を率いて参陣したが、豊臣秀保自身は渡海することなく、慶長の役(1597年~1598年)の前の1595年(文禄4年)に不慮の死を遂げた。
豊臣秀保の陣跡は名護屋城から約1.3㎞の串浦の入江を臨む標高約65mの丘陵上に位置し、その広さは20ヘクタールを超えている。
その遺構は良好な状態で保存されており、これまで絵図類の分析や現状観察、発掘調査の成果などから規模や構造、建物などが明らかになっている。
それらによると、豊臣秀保の陣屋は諸大名の陣屋の中でも最大規模で、小城郭ともいえる構造を誇るものであった。
本稿では、豊臣秀保の陣屋の特徴について、彼の生涯と関連付けながら、これまでの研究成果をもとに探究する。
豊臣秀保の生涯
豊臣秀保は1579年(天正7年)に豊臣秀吉の姉・とも、後の日秀尼(にっしゅうに)と弥助、後の三好吉房(みよし よしふさ)の三男として生まれた。
長兄に豊臣秀吉のあと関白を継いだ豊臣秀次(ひでつぐ)、次兄に豊臣秀勝(ひでかつ)がおり、幼名は御虎(おとら)である。
豊臣秀保は、豊臣一門衆として幼少より昇進を重ね、1588年(天正16年)1月には、わずか10歳(数え年、以下、同様)で侍従(じじゅう)に任じられている。
同年4月の後陽成天皇の聚楽第行幸(じゅらくてい ぎょうこう)を記した『聚楽亭行幸記』には、「御虎侍従」の名がみられる。
豊臣秀保が13歳となった1591年(天正19年)1月、叔父・豊臣秀長の娘(4歳か5歳)と祝言をあげ、跡継ぎがないまま病床にあった豊臣秀長の養嗣子となった。
同月に豊臣秀長が没するとその跡を継ぎ、大和(奈良県)と紀伊(和歌山県)の2か国を継承して大和郡山城(奈良県大和郡山市)の主となった。
また、従四位下・参議近衛権中将(さんぎ このえ ごんのちゅうじょう)にも任じられ豊臣の姓も下賜された。
1592年(文禄元年)1月29日(2月7日との説あり)、従三位権中納言となり、以降は「大和中納言」と呼ばれるようになった。
このとき、豊臣秀保は14歳であったが、これまでも豊臣家中においては次兄・豊臣秀勝よりも上位であり、長兄・豊臣秀次が関白(1591年)に就任して以降は豊臣一門衆筆頭の扱いを受けた。
1592年(文禄元年)4月からの文禄の役では、まず名護屋城の普請(ふしん・土木工事)に参加し、次いで兵1万を率いて参陣するが、自身は渡海せずに名護屋城下に陣屋を築いて滞在した。
ただし、配下の諸将は藤堂高虎(とうどう たかとら)を名代として渡海し、紀伊の海賊衆を中心に桑山元晴(くわやま もとはる)や甥の桑山一晴(かずはる)、堀内氏善(ほりうち うじよし)らが朝鮮半島南岸で戦っている。
また、本多俊政(ほんだ としまさ)は壱岐勝本城(長崎県壱岐市)に兵500を率いて在番し、朝鮮渡海軍のための兵站物資の海上輸送と島内の治安維を担った。
明との講和交渉が始まると、1593年(文禄2年)閏9月、豊臣秀保は藤堂高虎らとともに名護屋を引き上げて下関まで戻り、豊臣秀吉の後を追って上洛した。
翌1594年(文禄3年)5月23日、明使・沈惟敬(しん いけい)が名護屋城において豊臣秀吉と対面した際、豊臣秀保は伺候(しこう)しているが、徳川家康(とくがわ いえやす)・前田利家(まえだ としいえ)・織田秀信(おだ ひでのぶ)・小早川秀秋(こばやかわ ひであき)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)と同室の扱いであった。
豊臣秀保は豊臣一門衆筆頭として将来を嘱望されたが、1595年(文禄4年)4月、わずか17歳で領国である大和国の十津川で不慮の死を遂げた。
絵図に描かれた陣屋
豊臣秀保の陣屋に関する絵図として「名護屋城並諸侯陣跡之図」(『松浦記集成』所収)と「肥前名護屋城図屏風」の2点が知られている。
「名護屋城並諸侯陣跡之図」では、豊臣秀保の陣屋は2ヶ所に分かれており、「鉢畠(はちはたけ)」という場所に「一万騎」と記され、その北側の「山ノ神」という名の丘陵には屋敷がみられる。
「鉢畠」は現在も残る地名で、地元では「鉢畠陣」の通称で知られているが、「山ノ神」の場所については不明である。
「肥前名護屋城図屏風」には、豊臣秀保の陣屋の縄張りや建物が詳細に描かれている。
縄張りは石垣と土塀で区画され、手前の張り出し部は第一陣の第ニ郭、奥に第一郭、右端の折れは第一郭の桝形部が表現されている。
門は冠木門(かぶきもん)が2ヶ所にあり、右側が正門で、丘陵を下り串浦の船着場に通じている左側の裏門は実際に残る遺構とは位置が異なっている。
これは、この屏風が地形の表現と現存する遺構とを照合しながらも、東からの眺望に串浦の対岸からの景観も加えて絵画的にまとめたことによるものであるという。
屏風に描かれている陣屋の建物は9軒あり、そのうち左隅の建物は瓦葺き二層の楼閣風で、串浦方面を見渡すことができる位置にある。
ほかの建物はいずれも檜皮(ひわだ)葺きの平屋造りで、中央には入母屋造の殿舎風建物とその周辺には関連する一群の建物が描かれている。
借景として松、石垣の外に見張り役と考えられる3名の武士が槍・薙刀(なぎなた)を塀に立てかけ、腰をおろして話し込んでいる様子がみられる。
豊臣秀保の陣屋はほかの諸大名の陣屋に比べて立派に描かれており、特に瓦葺き二層の楼閣風建物はこの陣屋だけにみられるものである。
陣屋の構造
豊臣秀保の陣屋の構造については、現状観察や測量調査などから以下のことが確認されている。
それによると、陣屋は第一陣と第二陣からなり、いずれも小高い丘陵の頂部の中心に郭(くるわ)が、途中の鞍部には帯郭(おびくるわ)が残存する。
陣屋の主体部は第一陣で、第二陣は見張り所や兵員の待機場所の機能をもつ付属施設と考えられているが詳細は不明である。
第一陣の縄張りは2つの郭(第一郭・第ニ郭)からなり、それには桝形(ますがた)・腰郭・竪堀などが付設する。
第一郭は長軸を北西から東南方向に置く約60m×約45mの長方形で、北隅に約18m四方の桝形を、南隅には折(おり)を1ヶ所造るなど、防御性を高める工夫がみられる。
第二郭は第一郭の東南側の第一郭より約1.5m低いところにあり、約30mの台形状を呈しているが、崩壊が激しいために詳細は不明である。
なお、第一郭の長辺60mは「二百尺」、短辺45mは「百五十尺」、第二郭の30mは「百尺」であることから、自然地形の制約を受けながらも、一定の基準に基づいて造営工事がおこなわれたことが推定されている。
門の痕跡は4ヶ所にあり、第一郭には北隅の枡形西北の門と、この先の大手門にあたる門、主郭西南の搦手(からめて)にあたる門の3つで、残り1つは第二郭の西隅にある脇門と考えられている。
「肥前名護屋城図屏風」にみられる2つの門は、枡形西北の門と主郭西南の搦手門と考えられているが、その位置は一致していない。
豊臣秀保の陣跡には、現在も石塁や石垣が随所にみられるが、それは近場の海岸にある自然石(安山岩)を用いた野面積(のづらづ)みである。
枡形の入口付近や主郭東北の外側などには、外観をよく見せるためか大きな石材を用い、一部の自然石には矢穴も認められる。
石積みは穴太衆(あのうしゅう)らの専門集団が担ったが、大量の石材の運搬や構築には多くの地元民が駆り出されたものと考えられている。
陣跡の発掘調査成果
豊臣秀保の陣跡は1978年(昭和53年)~1980年(昭和55年)に発掘調査が実施されており、その成果から特徴的な遺構や遺物を紹介する。
第一陣の第一郭主郭における発掘調査では5棟からなる礎石建物群が検出されている。
それは「主殿」を中心に、西北に上がり口をもつ1棟が続き、東南には3棟が直角方向に並ぶ。
主殿の規模は約10m×約14mとそれほど大きくはなく、礎石も手ごろな平石を据えたものである。
ただし、主殿の内部には3つの部屋があり、その周囲には広縁がめぐり、礎石の状況から付書院(つけしょいん)が設けられていたものと推定されている。
また、南隅で検出された礎石建物跡(約6m×約4.2m)は、内部の間仕切(まじき)りや張り出しの状況、付近から出土の大量の瓦などから、この建物跡は「肥前名護屋城図屏風」に描かれている二層瓦葺きの楼閣風建物と推定されている。
次に、主郭の東南部においては、普請の際の基礎工事の跡とみられる遺構が検出されている。
この遺構は、上幅が約2m、高さが約2m以上の土塁状を呈し、両側は簡単な石垣で固めたもので、東南の石塁に並行して約2mの間隔で2列が検出された。
石垣の強度や手法などから、陣屋の構築にあたって丘陵頂部を平坦に整形し、主郭の東南端部の土盛りをおこなった際に補強のために構築したものと考えられている。
また、石垣の中からは主郭南隅で出土したのと同じ瓦片が見つかっており、陣屋の内部と外部の普請が並行して進められていたことが指摘されている。
出土遺物は、瓦が大半を占め、ほかには陶磁器と土師質(はじしつ)土器の破片、鎧通し、鉄鏃、銜金具(はみかなぐ)、中国の古銭である開元通宝(かいげんつうほう)などが数点のみで、生活用品は乏しい。
瓦は軒丸瓦(のきまるがわら)・軒平(のきひら)瓦・丸瓦・平瓦の4種類で、前述したように第一陣の南隅で大量に出土している。
軒丸瓦は三巴文様(みつどもえもんよう)と珠文(しゅもん)を組み合わせたもので、縁の幅や珠文の数、巴の大きさなどによって2種類に区分されている。
軒平瓦は葉文(ようぶんじ)状中心飾りと均等唐草(きんとうからくさ)文葉との組み合わせたもので、軒丸瓦と同様に縁の幅や中心飾りの向き、唐草の巻き数などによって2種類に区分されている。
平瓦は縦長が約30cm、横幅が約27㎝とほぼ規格化されているが、丸瓦はすべて玉葉(ぎょくよう)付きで、長さは約31~35cm、幅は約15cmと若干のバラツキがある。
豊臣秀保の陣屋における瓦葺きの建物は1棟だけであるにもかかわらず、軒丸瓦・軒平瓦ともに2種類の瓦が使われていることが注目されている。
このことの背景として、陣屋の瓦は名護屋城の瓦と共用し、職人グループごとに異なる種類の瓦が製作されたのではないかという説がある。
名護屋城の瓦については、佐賀平野方面の現・佐賀市高木瀬(たかきせ)や鳥栖(とす)市朝日町などの職人に瓦の製作が命じられ、それが名護屋まで約70㎞の街道に住民を並ばせて手渡しで送ったという伝承がある。
豊臣秀保の陣屋の特徴
豊臣秀保の陣屋は、これまでの絵図類の分析や現状観察、発掘調査などを通じて陣屋の構造や建物などの様子が明らかになっている。
陣屋の規模は名護屋城周辺に残る150ヶ所以上の諸大名の陣屋の中で最大級であり、その構造や建物はほかの陣屋にはみられない城郭風のものである。
例えば、「肥前名護屋城図屏風」には、豊臣秀保の陣屋の建物9軒が描かれているが、その中で左隅に位置する瓦葺き二層の楼閣風建物は諸大名の陣屋で唯一のものでる。
この楼閣風建物については、1978年(昭和53年)~1980年(昭和55年)に実施された発掘調査においても確認されている。
文禄の役(1592年~1593年)・慶長の役(1597年~1598年)の頃は、寝殿造りから書院造りへの転換期とされており、豊臣秀保の陣屋にあったと推定される付書院などの建物はきわめて貴重な資料である。
豊臣秀保は豊臣秀吉の姉の子として生まれ、兄には関白職を継いだ豊臣秀次がいる。
文禄の役のときには、叔父・豊臣秀長の跡を継いで大和・紀伊の2ヶ国の領主として従三位権中納言という高い地位であり、豊臣一門衆筆頭の扱いを受けていた。
また、1593年(文禄2年)5月20日付けの起請文(きしょうもん)では、徳川家康(とくがわ いえやす)に次いで署名がみえるなど、諸大名の中でも徳川家康に次ぐ立場であったことが分かる。
文禄の役(1592年~1593年)の際、豊臣秀保は名護屋城の普請に参加し、1万の兵を率いて参陣した。
豊臣秀保自身は渡海しなかったものの、藤堂高虎を主とする配下の武将は渡海し、水軍として朝鮮半島南岸で戦い、本多俊政は壱岐勝本城において、兵站物資の海上輸送と島内の治安維を担うなど活躍している。
ちなみに、壱岐勝本城に存在したとされる建物の配置は豊臣秀保の陣屋と類似しているという。
また、豊臣秀吉が明征服後を想定した文書である『豊太閤三国処置太早計(ほうたいこう さんごくしょちふそうけい)』によると、豊臣秀保は宇喜多秀家(うきた ひでいえ)とともに日本の関白職に擬せられている。
以上のことから、豊臣秀保は豊臣家の次代を担う人物の一人として豊臣秀吉の側近くに仕えていたと考えられる。
豊臣秀保の陣屋が規模や構造、瓦葺き二層の楼閣風建物などの建物において、ほかの諸大名の陣屋より卓越していたのは、豊臣秀保の出自が大きく関わっていたのである。
その陣屋は名護屋城の西側を防御し、串浦からの外敵の上陸を阻む重要な役割を担っていたのであろう。
<主な参考文献>
・池上 裕子 2002年『日本の歴史 第15巻 織豊政権と江戸幕府』講談社
・大日本人名辞書刊行会 編 1926年『大日本人名辞書 下卷新版』大日本人名辞書刊行会
・中井 均 2021年『秀吉と家臣団の城』株式会社 KADOKAWA
・平井 聖、他 1980年『日本城郭大系 第17巻 長崎・佐賀』新人物往来社
(寄稿)勝武@相模
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