歴史的環境
九州北方の長崎県に属する壱岐(いき)と対馬(つしま)の2つの島は、古来より九州と朝鮮半島との間に位置する国境の島として、ときには外国勢力の攻撃を受けながら、国防の前線基地としての役割を果たしてきた。
例えば、対馬には663年(天智2年)の白村江(はくそんこう)の戦いの敗戦後、唐・新羅(しらぎ)の侵攻に備えて663年(天智3年)年に防人(さきもり)が置かれ、烽火(とぶひ)が8か所に設置された。
667年(天智6年)には対馬の中央部、浅茅湾(あそうわん)南岸の山に朝鮮式山城である金田城(かなたのき・かねだじょう)が築かれた。
平安時代の1019年(寛仁3年)、いわゆる「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」の際、壱岐・対馬も被害に見舞われ、特に対馬では賊船50隻の襲撃を受けて、117人が殺害、230人が拉致されたという。
鎌倉時代には、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)に元などの大軍が博多湾に来襲(「蒙古襲来」・「元寇」)したときも、壱岐・対馬は占領され、住民は大きな被害を受けた。
対馬では文永の役(1274年)のときに、男は殺戮(さつりゃく)されるか捕らえられ、女は1ヶ所に集められて、手に釘を打たれて船に縛り付けられたという。
さらに、14世紀後半から倭寇の活動が激しくなると、対馬は倭寇の根拠地の1つとみなされ、1419年(応永26年)に朝鮮軍の攻撃を受け、激しい戦闘を繰り広げた(「応永の外寇」)。
そして、1592年(文禄元年)と1597年(慶長2年)、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役に先立つ1591年(天正19年)、壱岐に勝本城(長崎県壱岐市)、対馬に清水山城(長崎県対馬市)が築かれた。
この勝本城と清水山城はどのような城で、何のために築かれたのであろうか。
次章以降では、勝本城・清水山城の構造や現状、築城経緯などを整理した上で、2つの城の歴史的意義について探究する。
勝本城の構造
勝本城は、壱岐島の北端の勝本港を見下ろす標高約79mの城山山頂に立地し、現在は城山公園として整備されている。
勝本港は、辰ノ島・若宮島・名鳥島などに囲まれた天然の良港であり、島の西側の郷ノ浦港とともに、壱岐島にとって極めて重要な場所である。
勝本城はこうした要衝の地に自然地形を利用して築かれたが、その構造については、松浦史料博物館(長崎県平戸市)所蔵の「壱岐国勝本城址図」(以下、「城址図」という)や、『壱岐名勝図誌』(1861年)所収の絵図や記述から知ることができる。
まず、城址図や絵図によると、勝本城の構造は自然地形に合わせた楕円形の単郭で、その規模は長径が約147m、短径が約69mである。
石垣は城の北面から西面にかけて構築されているが、郭を全周しておらず総石垣造りの城ではない。
城の中心部(主郭)には、3棟の建物の礎石が東西一直線上に並んで描かれている。
それを復元すると、東棟と西棟に縁が巡り、廊下で結ばれる建物であったと推測されている。
こうした建物配置は、肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の城下に構えられた諸大名の陣屋の中で、豊臣秀保(ひでやす)の陣屋跡の発掘調査で検出された建物と似ているという。
大手門は城の北側に位置し、石垣造りの巨大な虎口の両側には石垣造りの櫓(やぐら)台があった。
この大手の櫓門を入ると、城道は左折して内枡形(うちますがた)をなし、櫓台の前面の空間は外枡形となっていた。
勝本城の構造は単純な単郭であるが、大手門は外枡形と内枡形を併せ持つという複雑な櫓門であった。
この大手門は勝本港側を向いており、石垣には巨石を用いた鏡石が使われていることから、上陸した豊臣秀吉を迎え入れ、その威光を示すための儀礼的な門であったと考えられる。
石垣の石材は、矢穴を穿って割られたものは認められず、粗割した石を積む「打ち込み接(は)ぎ」で1591年(天正19年)頃の石垣構築技術を反映したものである。
絵図をみると、大手の櫓台石垣及び外枡形石垣の4隅の稜線が空白になっていることが注目される。
これは、破城の結果、4隅の出隅部分の石垣を崩したことを正確に描いたもので、石垣の崩れている箇所は人工的に崩した破城の痕跡と考えられている。
次に、『壱岐名勝図誌』には、勝本城の別名である「武末古城址」の項目に次のような記述がある。
それは「勝本浦の頂上にあり。豊臣秀吉公朝鮮征伐の時、はしめて是を築けり。其旧跡子城の址、竪寅申四十七間一尺、横亥巳二十四間、亥の方に門跡あり。くハしくハ図にてしるへし。子城の堀より東山坂の麓迄二町廿九間五尺、内竪二間五尺、横四間計の池の跡あり。是所謂天瀬堤なり。南麓まて二町十八間、西麓まて壱町三十四間、北黒瀬町まて二町半ハかり。子城松多く生まり。礎如図残れり。屋形の有様ほほゝしられたり。井の所ハ小石をを積て詳ならすといへとも、二所井の跡といふあり。二丸ハ畠地となれり。されとも高く聳えて誠に要害の地理なり。(中略)。当城築立の砌、本多因幡守七ケ年の間、城番として在住せしとなん」というものである。
この記述から、勝本城は「朝鮮征伐」の際に「子城」(出城)として築かれたこと、その中心部(主郭)の規模は、北東と南西の軸が「四十七間一尺」(約85.7m)、北西と南東の軸が「二十四間」(約43.6m)であること、
亥の方角(北北西)の門、「屋形」の礎石、井戸などの跡が残っていたことが分かる。
また、築城当初から本多因幡守(ほんだ いなばのかみ)が7年間、城番として在住したとあるが、この人物は豊臣秀吉の弟の豊臣秀長(ひでなが)の家臣・本多正武(まさたけ)のことである。
清水山城の構造
清水山城は、当時は府中と呼ばれた厳原(いずはら)の宗氏の居城・金石城の北側にそびえ立つ清水山に立地する。
標高約206mの山頂に一の丸、南東方向に下ったところに二の丸、さらに東に延びた尾根の先端部に三の丸があり、それらの郭を取り巻く石垣が現在も残る。
厳原の港は壱岐・博多へつながる航路の要衝であり、清水山からはこの港に出入りする船を見渡すことができる。
清水山城の構造については、「宗家文庫」に所蔵されている「清水山城図」(以下、「絵図」という)から知ることができる。
山頂の一の丸の規模について、絵図には「廻り八拾七間」(約158m)と記されているが、実際は東西約50m、南北約40mを測る楕円形である。
城の正面に当たる東側と南西側に城門が設けられ、中央部に基壇が設けられている。
基壇はかなり崩れており、規模などは不明であるが、絵図には「東西四間、東北三間」とあり、高さは記されていない。
二の丸は、一の丸の東側の城門から急激な斜面を下ったところにあり、その距離は約10mで、その通路の両側には石垣の跡が残る。
二の丸は東西約50m、南北約30mのほぼ長方形を呈しており、随所に複雑な屈折がみられる。
郭内は平坦で東西に城門があり、東側の正門は三の丸、西側の門は一の丸へ通じている。
二の丸から東側に急激な坂道を約60m下ると、山の鞍部に出るが、ここからは緩やかな勾配の平坦な尾根道となる。
この尾根道は三の丸へと続いているが、この通路の両側には石垣が残っており、途中4ヶ所、両側に合わせて8ヶ所に石垣の出張りが設けられている。
この出張りの大きさは一定していないが、2m弱が突き出ており、長さは7m前後である。
三の丸はこの尾根の先端にあり、先端部の石垣は崖縁に張り出すように堅固に積まれている。
絵図には、石垣の高さ「弐間余」(約3.6m)とあり、張り出しの部分には「築出」と記されている。
三の丸の南側にある石段は、城門があったところと考えられており、そこから国府平へ下る道が通じている。
三の丸から稜線の南側には、絵図に「カラホリ」と記されている竪堀が通り、金石城(長崎県対馬市)の外郭に連結していたといいう。
竪堀は、1955年(昭和30年)ごろまで形状が確認できたそうだが、現在は宅地造成等で地形が変容しており、詳細を観察することは困難であるという。
石垣については、一の丸の石垣が扁平の石材を垂直に積み上げているのに対して、二の丸・三の丸のものは
「打ち込み接ぎ」と呼ばれる、大まかに割ったり削ったりした石材を積み上げるものである。
前者は対馬独自の積み方で対馬の大名・宗氏が構築し、後者は築城工事に動員された九州の大名・相良長毎(さがら ながつね)、高橋直次(たかはし なおつぐ)、筑紫広門(つくし ひとかど)らが構築したことによる違いであると考えられている。
二の丸・三の丸の打ち込み接ぎは、清水山城が築かれた1591年(天正19年)当時では、最新の石垣技術である。
清水山城の建物については、現地の遺構や絵図を見る限り、大型の建物が存在したとは考えられない。
まず、城の主郭(中心部)である一の丸は、極めて狭いうえに岩盤を粗く削っただけで平坦ではなく、絵図に記載のある建物の規模は「三間一尺四方」(約5.76m四方)とかなり狭い。
次に、絵図において一番広い建物は、三の丸と二の丸の中間にある「八間二尺」(約15.2m)×「六間五寸」(約11.1m)の規模である。
この建物については、東側の一辺が横矢掛かりの張り出しを兼ねており、倉庫か望楼(ぼうろう)ではないかと考えられている。
勝本城・清水山城の歴史的意義
以上のような構造を持つ勝本城と清水山城の築城経緯については、以下の史料から知ることができる。
まず、勝本城の築城経緯については、1591年(天正19年)9月3日付けの豊臣秀吉が松浦鎮信(まつら しげのぶ)に宛てた書状に以下の記述がある。
「就今度大明国・高麗御動座、於壱岐国、御座所作事普請之事、其方請取之可申付候、然者有馬修理大夫・大村新八郎・五嶋宇久大和守相加、右之作事普請以下儀可之由申聞、入精無由断可申付候也」とある。
豊臣秀吉が明国と朝鮮に渡るため、壱岐に「御座所」を造営する工事を松浦鎮信に任せるので、有馬晴信(ありま はるのぶ)、大村喜前(おおむら よしあき)、五島純玄(ごとう すみはる)に手伝わせ、油断なく工事をおこなうことを命じた、という内容である。
ちなみに、松浦鎮信をはじめ有馬晴信、大村喜前、五島純玄はいずれも肥前国(長崎県)の大名である。
次に、清水山城については、勝本城のように、豊臣秀吉が築城を命じたとする一次史料は残されていない。
ただし、江戸時代前半の1699年(元禄12年)に編纂の『津島紀略』に次のような記述がある。
それは「清水山(中略)、而連接于有明峯、清水山有古城、豊臣秀吉公時所築也、両朝平壌録云、万(ママ)暦十八年、関白令列国築城於肥前・一岐・対馬三処、以為渡唐館駅、萬暦十八年当日本天正十八年、所謂築城於三処者、肥前名護屋城・壱岐勝本城・本州清水山城乎、」というものである。
これには、清水山にある古城は豊臣秀吉の時代に築かれたものとし、『両朝平壌(へいじょう)録』の1590年(明の万暦18年)の記事と結び付けて、清水山城は豊臣秀吉が肥前・壱岐・対馬の3ヶ所に築かせた渡海のための「館駅」の一つであるとしている。
清水山城の築城経緯については、1809年(文化6年)に編纂の『津島記事』でも『両朝平壌録』の内容が踏襲されている。
加えて『津島記事』には、「一ノ丸」「二ノ丸」「三ノ丸」などの清水山城の構造や、毛利高政(もうり たかまさ)が設計したという趣旨の記述がみられる。
さらに、勝本城と清水山城ともに、ルイス・フロイスの『日本史』に次のような記述がある。
それは「(老)関白はさらに、彼が朝鮮に渡る際に滞在できる二島(壱岐・対馬)にも、同じく自分のための屋敷と宿舎、および食糧用の大貯蔵庫の建築を命じた。これらの島の一つは壱岐島(Yuquinoxima)と呼ばれ、平戸領に属している。他はアゴスチイノの婿にあたる屋形(宗義智)が支配する対馬(島)である。(老関白)は、(朝鮮に渡るに)先立ち、身分ある武将たちに果すべき使命を授け、彼らをその(両)島へ派遣した。これらの島は貧しく、大規模で豪華な(建築をする)ための必需品を欠いていたので、その建築にあたっては、名護屋における以上の困難が伴った」というものである。
この記事から、豊臣秀吉が渡海のために壱岐・対馬に御座所として「屋敷と宿舎」、そのほか「食糧用の大貯蔵庫」を建てさせたこと、そのために身分のある武将を派遣したこと、その工事は困難であったことが分かる。
これまで整理した史料によると、勝本城・清水山城ともに、豊臣秀吉の朝鮮への御座所や食糧倉庫があったことは確かである。
まず、勝本城については、中心部(主郭)に城址図や絵図に三棟の建物の礎石が描かれており、推定される建物配置は肥前名護屋城の城下で検出された豊臣秀保の陣屋と類似している。
豊臣秀保は、長兄の豊臣秀次(ひでつぐ)が関白に就任して以降、豊臣一門の筆頭として扱かわれていた。
このことからも、勝本城に豊臣秀吉の御座所が存在したことは、確かなことと考えられる。
一方、清水山城については、前述したように現地の遺構や絵図からは、豊臣秀吉の「御座所」に相応しい大型建物は確認できない。
それでは、ルイス・フロイスの『日本史』に記されている豊臣秀吉の屋敷や宿舎はどこにあったのか、という疑問が残る。
このことについて、対馬における豊臣秀吉の御座所は、清水山城の麓の金石屋形(のちの金石城)であったとする説が有力である。
1528年(享禄元年)に宗将盛(そう まさもり)が築いた宗氏の居館・金石屋形に手を加えて、それを豊臣秀吉の御座所に当てたというものである。
ただし、金石屋形は平城で防御性に乏しかったために、豊臣秀吉の滞在中の変事に備えて、背後の清水山に新たに築かれた詰めの城が清水山城であったと考えられる。
以上、本稿ではまず、壱岐の勝本城と対馬の清水山城の構造や築城経緯などについて、史料や絵図類、城の構造などから分かることを整理した。
その上で、勝本城・清水山城の歴史的意義について探究したところ、両城とも文禄・慶長の役の際に、豊臣秀吉が渡海するための御座所として築かれたことは確かである。
ただし、清水山城については、御座所が作られた金石屋形の背後を守る城として築かれたものと考えられる。
実際は、豊臣秀吉が渡海することはなかったため、勝本城と清水山城は兵站基地や輸送・連絡の拠点としての役割を果たした。
勝本城は、城番の本多正武が壱岐島全島の治安や武器・兵員輸送を担い、清水山城の方は、毛利高政が対馬に駐留し、渡海する軍団の監察にあたっている。
文禄・慶長の役の終結後、勝本城は破却され、清水山城は利用されず、改変されることもなく往時の姿を今に伝えている。
勝本城と清水山城は、文禄・慶長の役で豊臣秀吉が朝鮮に渡海する意図があったことを示す貴重な史跡であり、特に清水山城は1984年(昭和59年)12月6日に国指定文化財に指定されている。
<主な参考文献>
・池上 裕子 2002年『日本の歴史 第15巻 織豊政権と江戸幕府』講談社
・織豊期城郭研究会 2014年『倭城を歩く』サンライズ出版株式会社
・長 節子 1985年「(五)勝本城・清水山城」『文禄・慶長の役城跡図集、解説篇』佐賀県文化財調査報告書第81集 特別史跡名護屋城跡並びに陣跡3 佐賀県教育貝会
・中井 均 2021年『秀吉と家臣団の城』株式会社 KADOKAWA
・平井 聖、他 1980年『日本城郭体系 第17巻 長崎・佐賀』新人物往来社
・松田 毅一・川崎 桃太訳『フロイス日本史』2 中央公論社
(寄稿)勝武@相模
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