【豊臣秀吉と城】豊臣秀吉が京都に構築した「御土居」の解説~発掘調査の成果を中心として~

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「御土居」とは

「御土居(おどい)」は京都の町を取り囲んだ構築物であり、豊臣秀吉が1591年(天正19年)1月から構築を始め3月には完成したという。
当時の記録には「洛中惣構(らくちゅうそうがまえ)」(『滝川文書』)、「京惣堀」(『駒井日記』)、「堤(堤防)」(『兼見卿(かねみきょう)記』)などとあり、当初から京都の町の惣構(そうがま)えとして認識されていたことがわかる。

御土居は、東は鴨川(かもがわ)の西岸、西は紙屋(かみや)川から東寺(京都市南区)の西側、南は東寺の南側の九条通りまで、北は上賀茂(かみがも)から鷹峯(たかがみね)までの範囲で、東西約3.4km、南北約8.5km、総延長は約22.5kmに及ぶ。
東側が鴨川、西側が紙屋川で挟まれた御土居の内側は「洛中」、外側は「洛外」と呼ばれ、出入り口が10ヶ所設けられていた。
その出入り口の中でも、長坂口・鞍馬口・大原口・粟田口・伏見口・東寺口・丹波口の7ヶ所は「京の七口」と呼ばれ、ここから全国各地に通じていた。

御土居の現存部分を観察すると、その構造は外側に堀を巡らせ、掘削により生じた土を内側に盛り上げて台形状の土塁を築き、土崩れを防ぐためか土塁上に竹木(ちくぼく)を植えているところが多い。
江戸時代になると、御土居の東側を流れる鴨川に新たな堤防ができたり、市街地化が進んだことなどにより、土塁は取り壊され堀は埋め戻されていった。
一方、西・南・北側の土塁や堀は維持されたが、近代になると京都駅の建設や郊外への宅地化が進展などにより土塁の大半が消失した。
現在、御土居の跡は北西を中心にわずかに現存しており、そのうち以下の9ヶ所が国の史跡に指定されている。

【国史跡1】北区紫竹上長目町・上堀川町
御土居の北東の角部にあたり、鴨川の西側で土塁の土盛りを確認することができる。
【国史跡2】上京区寺町広小路上ル北之辺町
廬山寺(ろざんじ)境内裏の墓地の奥に位置し、南北方向に約50mの土塁が残存する。
【国史跡3】中京区西ノ京原町
御土居を神体とする稲荷神社となっており、土塁上に社殿が建ち、参道部分が堀跡と伝わる。
【国史跡4】上京区馬喰町
北野天満宮境内の西側に流れる紙屋川を堀として土塁の一部が現存しており、土塁構築の際に植えられたとされる欅(けやき)の大木がある。
【国史跡5】北区平野鳥居前町
現存する御土居の中で最も良好な状態で復元整備されている。
当時の土塁の形状が良くわかり、道路脇には御土居から出土した石仏が祀られている。
【国史跡6】北区紫野西土居町
「西土居町」という地名に御土居の名残を感じるが、住宅地の一角にわずかに土塁が現存するのみである。
【国史跡7】北区鷹峯旧土居町4
紙屋川の自然地形を利用して構築されており、現在、御土居の傾斜地が公園として整備されている。
【国史跡8】北区鷹峯旧土居町2
「京の七口」の一つである長坂口にあたる御土居の北西の角部に位置し、石垣を組んで土崩れを防ぐ工夫がみられる。
【国史跡9】北区大宮土居町
約250mにわたって御土居が良好に現存しており、外側からの見学でも堀と土塁の構造が良くわかる。

以上の9ヶ所以外にも地割や道路の起伏、町名などに御土居の痕跡がみられる所がある。
特に御土居の北側部分では、土塁や地割が明瞭に残る所は多いが、全長約22.5k mに及ぶ御土居の大半は消失している。

御土居跡の発掘調査

 

現在、御土居は前述した国史跡指定の9ヶ所を中心に、土塁の状況を観察できる所は多少あるが、堀は埋め戻されており、当時の実態を知ることはできない。
そこで、御土居の実態を解明するには、発掘調査により確認された遺構の検討や出土遺物の分析などの考古学調査が重要である。
御土居の最初の発掘調査は1918年(大正7年)から1920年(大正9年)にかけて京都府史蹟勝地調査会によっておこなわれた。
この調査では土塁・堀の残存状況が詳細に調べられており、その成果は『京都府史蹟勝地調査会報告』第2冊(1920年)に掲載されている。

その後も御土居の南側の約3分の2の範囲が平安京の範囲と重なっていることから、平安京関連の発掘調査の中で、御土居の土塁の基底部や堀の痕跡などが確認されている。
以下、これまでの御土居の発掘調査の概要について、主な調査地点ごとに整理する。

【調査地1】南区西九条鳥居口町
左側が洛外となる堀が発見され、埋められた土の層(以下、「堆積層」という)の大半が泥土(でいど)で常に湿地のような状態であることが確認されている。
堆積層は3層に分けられ、その下層からは安土・桃山時代後期の土器類、中層からは安土・桃山時代後期から江戸時代の陶磁器類や木製品が大量に出土している。
【調査地2】南区西九条春日町
幅が約20m、深さ約1.5mの堀と、その右側で土塁の裾部分が発見されている。
堀の底には連続する窪みが確認されており、それは作業単位を示す範囲と考えられている。
【調査地3】下京区朱雀堂ノ口町
御土居の西南側にある小さな角部分で、南北方向と東西方向の土塁と堀が発見されている。
【調査地4】下京区朱雀分木町
幅5m以上、深さ約1.3m~2.0mの南北方向にのびる堀が発見されている。
堀には、泥が厚く堆積しており、堀底には基盤層を削り出して東西・南北方向に交差する畝(うね)状の高まりが確認されている。
【調査地5】下京区中堂寺南町
幅約12.5m、深さ約1.5m、V字形の断面をもつ堀が発見されており、その堀底には畦(あぜ)状の高まりが数ヶ所で確認されている。
【調査地6】中京区西ノ京中保町・北野中学校
御土居の堀の北辺の肩部と、それに沿って東西に延びる溝が発見されており、溝の幅は約0.6m~約1.0m、深さは約0.5mである。
【調査地7】北区鷹峯旧土居町 
高さ約5mの土塁の盛土(もりど)と、土塁外側の幅約7.3m・深さ約2.3mの堀、堀の外側で幅約4m・高さ約2.5mの堤が発見されている。
堀とともに堤も発見されるのは希少で、河岸段丘などの地形の影響を受けながら、御土居が構築されたことを示す事例であるという。

以上、これまでの発掘調査により、御土居築造当時の土塁や堀の規模、形状、そして埋没の状況などが明らかになっている。
土塁の幅は基底部で約20m、残存する高さは約2mで、堀の幅は場所により約12.5m~約20m、深さも約1.5m~約2.5mと一定でない。
堀の規模や形状の違いは、立地する地形によって制限されたために、それに沿った掘削がなされたものと考えられる。
数ヶ所の御土居では、堀底で畝状や畦状の高まりがみられるが、これは工事を分担しておこなったために、担当範囲の境目で深さが異なったことによるものと考えられている。

多様な出土遺物

御土居の発掘調査では、堀から土器・陶磁器類、瓦類、金属製品、木製品などの多彩な遺物が出土している。
特に、JR京都駅南側の南区西九条(【調査地1】周辺一帯)では、堀の泥土と厚い砂礫からなる堆積層から多量の木製品が良好な状態で出土している。
これらの木製品を含む出土品477点は2019年(平成31年)3月29日に京都市指定文化財に指定されている。

それらのうち木製品には、服飾具・容器・食事具・調理具・文房具などの生活用品、刷毛・ヘラ・糸巻きなどの道具類、ミニチュア製品、人形類、そして墨書が記された荷札など(以下、「墨書資料」という)がある。

これらの多種・多様な木製品の中で、特に注目される人形類と墨書資料について解説する。
人形類は冠や烏帽子(えぼし)が表現された「文楽人形」を思わせる木製の頭部が出土している。
目・鼻・口・耳などの細部の表現が巧みであり、一部の頭部には頭髪を植え込んだ穴や溝を有数するものもある。
こうした人形類が出土した西九条地域には14世紀に、芸能者とされる「声聞師(しょうもじ)」の居住が確認されている。
遺物として希少な人形類が出土した地域には、安土・桃山時代後半から江戸時代前期にかけて、人形操りをおこなう芸能者あるいは人形の製作者が居住していたものと考えられる。

次に、墨書資料には掟札、巡礼札、付札、荷札、木製品、将棋駒、塔婆、経木、お守り、板状品があり、これらには年代・地名・品名・アルファベットが記されているものがある。
年代は「天正十年」(1582年)、「寛永弐拾壱年」(1644年)、「甲午承応」(1654年)などが記されている。
地名には「七条」・「四条」などの京内や「大坂」・「備前州」などの京都近国、「江戸銀座」・「亀貝村」(新潟県新潟市)などの遠国もみられる。
品物名は「御米」・「ミつつけのつほ」・「なっとう」・「茶」などが荷札にみられる。

そして、アルファベットが記された木簡は、これまで表面の文字が「pe せるぞ様」と解読されていた。
イエズス宣教師セルソ・コンファロネイロのことと解釈されて「ポルトガル木簡」として知られていた。
それが、2019年(令和元年)に再解読したところ、表面は「せる□様の せんかめ屋□□へ」、裏面は「V (アルファベット) m(アルファベット)」と解読された(公益財団法人 2019年)。
宣教師との関係は薄れたが、ただし、アルファベットが記された木簡はキリシタンと関係することは間違いないとされている。
この木簡が出土した西九条の場所は、史料から一定数のキリシタンが居住していることがわかり、また、近接する西福寺境内や旧九条小学校からキリシタン墓碑が発見されている。

以上のほかにも、御土居の堀からは多種多様な遺物が出土しており、安土桃山時代後半から江戸時代前半の生活文化を知る上で貴重な資料である。
また、数は少ないが年号が確認できる出土品もあり、御土居の堀は100年ほどかけて埋められており、その間、京都の町民の生活 廃材の捨場となっていたと考えられている。

御土居の機能・役割

御土居構築の目的については、京都の町(洛中)の防衛、鴨川・天神川の氾濫に対する備え、犯罪者の逃走を防ぐ治安など、様々な解釈がなされてきた。
近年、御土居の発掘調査の成果が蓄積されており、御土居の機能や役割を考える上で貴重な資料を提供している。
例えば、前述した【調査地4】で発見された堀底の畝状の高まりは障子堀の一部として、御土居の防御的な機能を示すものと考えられる。
また、【調査地7】で発見された堤は、川の氾濫に対する備えを厳重にするために、堀とともに掘られたものと考えられる。

また、豊臣秀吉による京都の改造と関連付けて御土居の機能や役割を考えることも必要である。
豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌年に太政大臣に任じられて豊臣政権を確立すると、京都の改造をおこなった。
具体的には、平安京の跡地に聚楽第を築城、その周辺に大名屋敷を建設したこと、京都御所を修復して周辺に公家屋敷町を配置したこと、散在する寺院を強制的に寺町に集めたこと、平安京以来の正方形の町割を南北に細長い短冊形の町割に変更したこと、などである。
こうした京都改造事業が進展する中で、御土居は1591年(天正19年)に聚楽第を中心として京都の町(洛中)を囲む形で構築された。
これらのことから、構築当初の御土居は聚楽第を中心として、洛外を明確に区別する惣構え(「洛中惣構」)としての役割があったものと考えたい。

なお、御土居の構築にあたっては、1590 年(天正 18 年)豊臣秀吉が小田原攻めをおこなった際、小田原城(神奈川県小田原市)を囲む全長約9kmの惣構えの影響を受けたとする説があるが、詳細は不明である。
このことも含め、御土居については解明すべきことが多くあり、発掘調査など今後の調査・研究の深化に期待したい。

<主な参考文献>

池上 裕子 2002年『日本の歴史 第15巻 織豊政権と江戸幕府』講談社
公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 2019年『平成30年度 京都市埋蔵文化財出土遺物文化財指定準備業務報告書 御土居跡(西九条周辺)出土品』
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社
財団法人京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館 2010年『京都市考古資料館開館30周年記念 京都 秀吉の時代 ~つちの中から~』
「聚楽第と御土居」
「京都市:御土居」

(寄稿)勝武@相模

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