概要
豊臣秀吉は朝鮮の制圧をめざし、1592年(文禄元年)と1597年(慶長2年)の二度にわたり朝鮮にのべ約30万人もの大軍を派遣した。
この「文禄・慶長の役」に参戦・渡海した主として西国の諸大名が朝鮮半島南岸に築いた日本式の城が倭城である。
現在、倭城は大韓民国の慶尚南道(けいしょうなんどう)、全羅南道(ぜんらなんどう)の約30カ所で確認されている。
倭城は合戦時の臨時的な「陣城」ではなく、地域支配の拠点として恒久的、本格的な城として築かれ、織田信長・豊臣秀吉とその配下の大名らが築いた城(以下、「織豊系城郭」という)の特徴を備えている。
なお、倭城の位置や規模の違いによる機能や役割の違いや、構造面や建造物の特徴については整理した。
・【豊臣秀吉と城】文禄・慶長の役における倭城を探究する~位置・規模から考える倭城の機能・役割~
・【豊臣秀吉と城】倭城の特徴と性格を探究する~織豊系城郭の特徴との違いに注目して~
特に、後者では倭城の天守台、石垣、仕切り石塁、竪堀・横堀といった構造面や瓦を織豊系城郭と比較したところ、倭城は織豊系城郭の特徴を備えている一方で、倭城独自の特徴もみられることが明らかとなった。
なお、登り石垣や仕切り石塁、朝鮮産の滴水瓦など倭城の特徴的な施設や瓦は、文禄・慶長の役後に新たに築かれた日本国内の城(以下、「近世城郭」という)に導入されている。
そこで、本稿では倭城の立地や特徴的な施設、瓦が近世城郭に与えた影響について、朝鮮に渡海して倭城の築城に関わった諸大名の動向と関連付けて探究する。
城の立地
日本国内の城の変遷は、戦国時代の山城から、安土桃山時代になると平山城・平城へと移行していったとするのが通説である。
ところが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い直後をピークに、大名の移封に伴い築かれた城は山頂に立地するものが多いのである。
例えば、関ヶ原の戦い後に安芸(広島県)に移封となった福島正則(ふくしま まさのり)が新たに築いた亀居(かめい)城(広島県竹原市/地図中の番号1、以下、数字のみ示す)である。
亀居城は毛利領と接する「境目の城」で小方(おがた)港と小方脇街道(旧山陽道)を守る要衝の地、標高約88mの山頂に総石垣造りの主要曲輪(くるわ)群が立地する。
港湾を押さえる背後の山へ立地するのは、倭城と同様に山上と山下を一体化して防御しようという意図がみられる。
また、関ヶ原の戦いの恩賞として筑前(福岡県)に移封となった黒田長政(くろだ ながまさ)は、1601年(慶長6年)、居城の福岡城(福岡市中央区/2)を守る「筑前六端城(ちくぜんろくはじょう)」と呼ばれる6つの支城を築いた。
このうち鷹取(たかとり)山城(福岡県直方市/3)は標高約631mの山頂に立地しており、単郭であるが2段の石垣造りで、桝形虎口(ますがたこぐち)や随所で折れがある塁線、櫓(やぐら)台など倭城の特徴がみられる。
そのほか、文禄・慶長の役から関ヶ原の戦い後に倭城の影響を受けて山頂に築城・改修された城には以下のものがある。
・1600年(慶長5年)、細川忠興(ほそかわ ただおき)が改修した松山城(福岡県苅田町/4)
・1600年(慶長5年)、加藤清正(かとう きよまさ)が改修した佐敷(さしき)花岡城(熊本県芦北町/5)
・1601年(慶長6年)、池田輝政(いけだ てるまさ)の甥・池田由之(よしゆき)が改修した利神(りかん)城(兵庫県佐用町/6)
・赤松広秀(あかまつ ひろひで)が改修した竹田城(兵庫県朝来市/7)
・毛利高政(もうり たかまさ)が改修した角牟礼(つのむれ)城(大分県玖珠町/8)、などである。
石垣の普及
石垣は織豊系城郭の重要な要素であるが、天正期(1573年~1592年)は畿内周辺や領国支配の拠点の城(以下、「拠点城郭」という)にだけ用いられていた。
それが文禄・慶長の役後に築かれた城は、支城であっても総石垣造りの城となるなど、特に九州をはじめとして全国の城に普及していった。
九州北部・中部の城では、鷹取山城(3)、松山城(4)、佐敷花岡城(5)、宇土(うと)城(熊本県宇土市/9)、角牟礼城(8)などがある。
近年では南九州の佐土原(さどはら)城(宮崎県宮崎市/10)でも石垣造りの天守台が検出されている。
その構築技法は基本的に自然石、粗割(あらわり)石を横向きに積み上げ、石材の隙間に間詰石(まづめいし)を詰めるという倭城と同じ技法で構築されている。
石垣が九州に普及した背景には、文禄・慶長の役で朝鮮に渡海した大名が、関ヶ原の戦い後に九州に移封され、新たな居城を築いたこと、また、九州の大名が帰国後に城を近世城郭として改修したことが考えられる。
倭城の築城は、これまで石垣構築の技術を持たなかった東国の大名の城にも石垣が導入される契機となった。
伊達政宗(だて まさむね)が朝鮮から母に宛てた書状に「いしがきの普請仕上がり候。かみしゆ、そつともおとり申さず候」とある。
伊達政宗が担当した石垣の構築が仕上がったが、「かみしゆ」(上衆)に劣らない出来映えであったことを誇る内容で、伊達政宗など東国の大名も西国の大名と同様の石垣構築技術を取得したことがわかる。
また、文禄・慶長の役前にはみられないが、文禄・慶長の役後の近世城郭に導入されたものに「登り石垣」(「竪石垣」とも呼ばれるが、本稿では「登り石垣」に統一する)がある。
登り石垣は、城の主要部がある山頂と、居館がある山麓を石垣で結ぶものである。
倭城では、港湾の背後の山頂から2本の登り石垣が山麓に向かって延び、まさに両腕で抱え込むように港湾を守っている。
日本国内では、伊予松山城(愛知県松山市/11)、洲本城(兵庫県洲本市/12)、竹田城(7)、米子(よなご)城(鳥取県米子市/13)、彦根城(滋賀県彦根市/14)などで登り石垣が導入されている。
以下、登り石垣が導入された城について、築城・改修年、築城主、登り石垣の状況などを整理する。
【伊予松山城】
1602年(慶長7年)から加藤嘉明(かとう よしあき)によって築かれたが、山頂部から山腹の二の丸を抱え込むように2本の登り石垣が造られている。
その登り石垣は、北側のものは明治維新前後に取り壊され、南側のものが完全な状態で現存する。
【洲本城】
脇坂安治(わきさか やすはる)が文禄・慶長の役後に大改修した際に、山上から山麓の居館の両端に2本の登り石垣が造られ、今も良好な状態で現存する。
【竹田城】
赤松広秀(あかまつ ひろひで)が文禄・慶長の役時から関ヶ原の戦い(1600年)までの間に石垣の整備をおこなった際、登り石垣も造られたものと考えられている。
【米子城】
2016年度(平成28年度)の発掘調査において、山頂の本丸と山腹の「内膳(ないぜんまる)丸」を結ぶ尾根上で登り石垣が検出された。
この登り石垣は1598年(慶長3年)頃に吉川広家(きつかわ ひろいえ)によって造られたものと考えられている。
【彦根城】
1604年(慶長9年)からの12家の大名が分担した「天下普請」による築城工事で、山上から山麓にかけて5ヶ所に登り石垣が造られている。
この登り石垣は、1~2mの高さのもが良好な状態で現存しており、当時はその上にさらに瓦塀が設けられていたと考えられている。
現在、登り石垣が確認されている近世城郭のうち、伊予松山城(11)は加藤嘉明、洲本城(12)は脇坂安治、竹田城(7)は赤松広秀、米子城(13)は吉川広家と、倭城の築城に関わった大名が築いた城である。
これらの大名たちは、朝鮮での築城や戦いの経験をふまえて帰国後に築城・改修した居城に登り石垣を導入したものと考えられる。
ただし、彦根城(14)を築いた井伊直政(いい なおまさ)や嫡男・井伊直継(なおつぐ)らは、主君・徳川家康(とくがわ いえやす)とともに名護屋城(佐賀県唐津市/15)に滞陣はしているが、朝鮮には渡海していない。
倭城を直接、見聞したことがない井伊直政や井伊家家臣らはどのような経緯で彦根城(14)に登り石垣を導入したのであろうか。
このことを考える際に参考となる史料に「浅野長吉・早川長政連印関所切手」(「三浦十左衛門家文書」所収)という書状がある。
それは、浅野長吉(あさの ながよし)・早川長政(はやかわ ながまさ)が井伊家家臣5人に対して対馬、壱岐、名護屋、関戸(せきど)の奉行衆に宛てた通交手形である。
こうした通交手形の存在は、井伊家家臣が朝鮮との間の地を盛んに往来し、あるいは観戦武官として朝鮮に渡海したことを示していると考えられる。
このことから、朝鮮に渡海しなった井伊家においても、倭城の築城技法について情報を収集して登り石垣の存在を知り、彦根城に導入したとのでないかと考えられている。
彦根城の登り石垣が本来の山上と山麓の曲輪を繋ぐためではなく、山腹の移動を妨げる意図があるという指摘もこの説を補強していると考えられる。
滴水瓦の使用
滴水(てきすい)瓦は朝鮮特有の軒平瓦の一種で、先端にあたる瓦当(がとう)面が逆三角形の形状を呈している。
瓦当面が地上に対して垂直となり、雨水が屋根を伝わって地上に滴るように落ちることから滴水瓦と呼ばれるようになったという。
こうした滴水瓦が、文禄・慶長の役に参戦・渡海した大名が役後に築いた城跡から多く出土している。
滴水瓦が近世城郭で使用されるようになった経緯については、以下の3点が指摘されている。
一つは、朝鮮で生産されたものを日本国内に持ち帰り、そのまま使用した事例である。
麦島(むぎしま)城(熊本県八代市/16)で出土した滴水瓦に「隆慶二年 仲秋造」、「卍 令會 化主 酉申六月日 萬歴十二年 供養主 □□」と刻まれている。
「隆慶(りゅうけい)二年」は明の年号で西暦1568年、「萬歴(ばんれき)十二年」も同様で西暦1584年にあたる。
「隆慶二年」と銘記されている瓦は、釜山の東萊(とくねぎ)城からも同じ鋳型を用いた滴水瓦が出土しており、東萊城から持ち帰って使用したものと考えられている。
二つ目は、滴水瓦が日本国内で生産され、瓦当の接合面は朝鮮産の構造と同じであるが、軒瓦の中心飾りの紋様に大名の家紋が使われている事例である。
姫路城(兵庫県姫路市/17)では、天守群や本丸の櫓、櫓門などの主要な建造物はすべて滴水瓦が用いられている。
それらの軒瓦の中心飾りには、揚羽蝶紋(あげはちょうもん)、桐紋が施されており、揚羽蝶紋は城主・池田氏の家紋である。
徳島城(徳島県徳島市/18)や洲本城(12)からも、蜂須賀(はちすか)氏の家紋である卍(まんじ)紋が施された滴水瓦が出土している。
三つ目は、熊本城(熊本市中央区/19)や宇土城(9)で出土したタイプの滴水瓦である。
軒平瓦の瓦当中心部に二条の縦方向の区画線を刻み、その外両側の区画部分に飛雲(ひうん)紋を配し、中心区画には年月日銘を刻んだものである。
熊本城で出土した滴水瓦は「慶長三年」(1598年)、宇土城のものは「慶長十三年」(1608年)の銘が刻まれており、その形状は朝鮮で生産された滴水瓦と類似している。
この滴水瓦を日本の瓦職人(工人)が朝鮮の滴水瓦を模倣して製作したのか、朝鮮から日本に連れて来られた朝鮮の瓦職人が製作したのかは不明である。
倭城が近世城郭に与えた影響
文禄・慶長の役の際に朝鮮半島南岸に築かれた倭城は、文禄期・慶長期初期の築城技術を良好に知ることができる貴重な城である。
それに加えて、倭城独自の立地や施設、瓦などは、文禄・慶長の役後に日本国内に築かれた近世城郭に多大な影響を与えている。
まず、城の立地については、戦国時代の山城から平山城・平城へと移行する中で、文禄・慶長の役から関ヶ原の戦い(1600年)後に築かれた城の大半が山頂に立地する。
その背景には、朝鮮で倭城の築城に関わった福島正則や黒田長政らの大名が、関ヶ原の戦い後に入封された地で新たな城を築くにあたり、倭城の影響を受けたことが考えられる。
次に石垣については、天正期(1573年~1592年)は畿内周辺や領国支配のための拠点城郭だけに用いられていた。
文禄・慶長の役で朝鮮に渡海した全国の大名が倭城の築城に関わり、石垣の構築技術を取得したことで、文禄・慶長の役後に九州をはじめとして全国に石垣が普及していった。
例えば、九州では倭城の築城に関わった大名が関ヶ原の戦い後に九州に移封され、新たに石垣造りの城を築いたり、九州の大名が帰国後に石垣造りの城に改修したりして全国に先駆けて石垣が普及していった。
また、伊達政宗をはじめ東国の大名も石垣構築技術を取得し、帰国後に新たな城の築城や改修に際して石垣を導入した。
このように、倭城の築城により全国に石垣が普及していき、各地に石垣造りの近世城郭が築かれることになったのである。
倭城の石垣の大きな特徴の一つに登り石垣があるが、それも近世城郭に導入され、伊予松山城(11)、洲本城(12)、彦根城(14)では、登り石垣が良好な状態で現存する。
その中でも、彦根城(14)の場合、井伊直政らの井伊家は朝鮮に渡海していないが、家臣らが倭城について情報を収集して登り石垣を導入したものと考えられる。
井伊家にとって登り石垣はそれほど魅力的なものであり、ここにも倭城が近世城郭に与えた影響をみることができる。
続いて、朝鮮特有の滴水瓦が麦島城(16)や姫路城(17)、熊本城(19)など渡海した大名の城で確認されている。
導入された経緯については、さまざまな可能性が指摘されており、今後の研究が期待される。
なお、倭城が近世城郭に与えたものとして、縄張り面では曲輪内に設けられた「仕切り石塁」がある。
仕切り石塁は、曲輪の塁線から内部に向けて垂直方向に石塁を突出させて曲輪内を仕切るものである。
この仕切り石塁が文禄・慶長の役後に築かれた名古屋城(名古屋市中区/20)、駿府城(静岡市葵区/21)、二条城(京都市中京区/22)、徳川期の大坂城(大坂市中央区/23)などで導入さている。
これらの城はいずれも単純な輪郭式の縄張りであるが、仕切り石塁を設けることで、曲輪内への敵の侵入を阻止し防御性を高めたいる。
文禄・慶長の役の短期間に朝鮮半島南岸に築かれた倭城は、築城当時の状況が良好に残されている貴重な城郭資料として高い評価を得ている。
それに加えて、文禄・慶長の役後に日本国内に築かれた近世城郭に大きな影響を与えていることも重要である。
今後、近世城郭を見学したり調べたりする際、倭城の特徴を念頭におきながら見学、調査をおこなうことで近世城郭の新たな魅力を発見することができるであろう。
<主な参考文献>
・織豊期城郭研究会 2014年『倭城を歩く』サンライズ出版株式会社
・中井 均 2021年『秀吉と家臣団の城』株式会社 KADOKAWA
・中井 均 2022年『織田・豊臣城郭の構造と展開 下』戎光祥出版株式会社
(寄稿)勝武@相模
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