朝鮮出兵と倭城
豊臣秀吉は全国統一を成し遂げると、明の征服をめざし、その先導を朝鮮に求めた。
それを朝鮮が拒否したために1592年(文禄元年)、小西行長・加藤清正ら約16万の大軍を朝鮮に派遣した(文禄の役)。
日本軍は首都・漢城(ソウル)を占領し、朝鮮全域に侵攻したが、民衆の抵抗や朝鮮水軍、明の援軍などにより、次第に苦戦を強いられた。
小西行長らの現地司令官は明との講和交渉を進めたが決裂し、1597年(慶長2年)、豊臣秀吉は再び約14万の大軍を派遣した(慶長の役)。
この慶長の役は当初から苦戦を強いられ、翌1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が没すると全軍が引き上げ、朝鮮出兵は終わった。
こうした朝鮮出兵について、小学校・中学校・高等学校の歴史学習で使われている教科書には、出兵の経緯や経過、影響などについての記述がある。
そのうち、城郭については、出兵の本拠である肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に関する図や記述がある。
以下、現在、小・中・高等学校で最も多く使用されている小学校『新しい社会 6 歴史編』(東京書籍)、中学校『新しい社会 歴史』(東京書籍)、高等学校の「日本史探究」で使用の『詳説 日本史』(山川出版社)における肥前名古屋城の記載を整理する。
小学校『新しい社会 6 歴史編』(東京書籍)には、「名護屋城(肥前名護屋城図屏風)」という図が掲載されており、「(前略),朝鮮に大軍を送るための拠点として,秀吉が約5か月でつくらせたといわれています。」との説明もある。
中学校『新しい社会 歴史』(東京書籍)にも「名護屋城(肥前名護屋城図屏風) 佐賀県立名護屋城博物館」と題する図が掲載されており、「秀吉が文禄・慶長の役の拠点として築いたものです。」との説明が付いている。
また、高等学校の日本史科目「日本史探究」で使用の『詳説 日本史』(山川出版社)には、図は掲載されていないものの「秀吉は1591(天正19)年には出兵の根拠として肥前に名護屋城を築き、(後略)」との記述がある。
以上のように、朝鮮出兵の本拠である肥前名護屋城については、小・中・高等学校の教科書に記載されているが、倭城(わじょう)に関する記載は一切ない。
倭城は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、日本軍が朝鮮半島南岸に築いた日本式(和式)の城で、現在、約30ヵ所で確認されている。
豊臣秀吉が文禄・慶長期に日本国内に築いた城は、後世に大きく改変されており、築城当初の痕跡を残していない。
例えば、豊臣秀吉の居城として知られる大坂城(大阪市中央区)、聚楽第(京都市上京区)、伏見城(京都市伏見区)でさえ、現在は地上にその痕跡を残していないのである。
それに対して、朝鮮半島に築かれた倭城は築城当初の構造を良好に残しており、日本城郭史における貴重な資料である。
こうした倭城の特徴について探究することで、朝鮮出兵における戦いのあり方や、当時の日本国内の城の特徴などを明らかにすることができるものと考える。
倭城一覧
倭城は朝鮮出兵の際、日本軍が朝鮮半島の南部各地に築いた城を朝鮮側が呼称した城である。
現在、大韓民国の慶尚南道(けいしょうなんどう)、全羅南道(ぜんらなんどう)の約30カ所に倭城跡が残る。
以下、倭城の築城年、主な築城者、所在地などについて整理するが、各城の番号は地図の番号と一致している。
また、城マークの黄色は文禄の役(1592年・1593年)、茶色は慶長の役(1597年・1598年)における築城で、白色は時期不明を示している。
【1 蔚山(いさん)城】
1597年(慶長2年)、加藤清正・毛利秀元・浅野幸長など、蔚山広域市中区鶴城洞100(鶴城公園)
【2 西生浦(せっかい)城】
1593年(文禄2年)、加藤清正、蔚山広域市蔚州郡西生面西生里
【3 林浪浦(せいぐわん)城】
1593年(文禄2年)、毛利吉成など、釜山広域市機張郡長安邑林浪里山
【4 機張(くちゃん)城】
1593年(文禄2年)、黒田長政、釜山広域市機張郡機張邑竹城里山
【5 東萊(とくねぎ)城】
1592年(文禄元年)~1598年(慶長3年)、吉川広家、釜山広域市東萊区漆山洞 ・安楽洞
【6 釜山浦(ふさんかい)城】
1592年(文禄元年)、毛利輝元・毛利秀元、釜山広域市東区佐川洞裏山(甑山公園)〔母城〕・凡一洞(子城台公園)〔子城〕
【7 亀浦(かとかい)城】
1593年(文禄2年)、小早川隆景など、釜山広域市北区徳川洞
【8 梁山(りゃくさん)城】
1597年(慶長2年)、毛利秀元・小早川秀秋、慶尚南道梁山市勿禁邑曽山里
【9 金海竹島(きんむい)城】
1593年(文禄2年)、鍋島直茂・伊達政宗、釜山広域市江西区竹林洞
【10 安骨浦(あんかうらい)城】
1593年(文禄2年)、九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治、慶尚南道昌原市鎮海区安骨洞山
【11 熊川(こもかい)城】
1593年(文禄2年)、小早川隆景・上杉景勝・小西行長、慶尚南道昌原市鎮海区南門洞南山
【12 明洞(みょんどん)城】
1593年(文禄2年)、宗義智・松浦鎮信、慶尚南道昌原市鎮海区明洞
【13 加徳(かとく)城】
1592年(文禄元年)、毛利輝元、釜山広域市江西区訥次洞山
【14 馬山(ちゃわん)城】
1597年(慶長2年)、不明、慶尚南道昌原市馬山合浦区山湖洞
【15 永登浦(よんどんぽ)城】
1592年(文禄元年)、島津義弘・島津忠恒(第4軍)、慶尚南道巨済市長木面旧永里
【16 松真浦(まつまうら)城】
1593年(文禄2年)、福島正則・戸田勝隆・長宗我部元親・島津義弘・島津忠恒、慶尚南道巨済市長木面松真浦里
【17 長門浦(ながとのうら)城】
1593年(文禄2年)、蜂須賀家政など、慶尚南道巨済市長木面長木里
【18 見乃梁(けんりょう)城】
1597年(慶長2年)、不明、慶尚南道巨済市沙等面広里 徳湖海岸道
【19 固城(こそん)城】
1597年(慶長2年)、吉川広家、慶尚南道固城郡固城邑水南里
【20 泗川(そせん)城】1597年(慶長2年)、長宗我部元親・毛利吉政など、慶尚南道泗川市龍現面船津里
【21 南海(なむはい)城】1597年(慶長2年)、 脇坂安治など、慶尚南道南海郡南海邑船所里
【22 順天(じゅんてん)城】
1597年(慶長2年)、小西行長・宇喜多秀家・藤堂高虎、全羅南道順天市海龍面新城里
【23 狐浦里城】
不明、小早川隆景、慶尚南道梁山市東面架山里、消失
【24 馬沙城】
不明、鍋島直茂・鍋島勝茂、慶尚南道金海市生林面馬沙里
【25 農所(のんそ)城】
不明、鍋島直茂・鍋島勝茂、慶尚南道金海市酒村面農所里山
【26 追門口城】
1593年(文禄2年)、毛利輝元、釜山広域市中区中央洞(龍頭山公園)、消失
【27 椎木城】
1593年(文禄2年)、毛利輝元、釜山広域市影島区東三洞 、消失
【28 加徳支(かとくし)城】
1593年(文禄2年)、立花宗茂など、釜山広域市江西区城北洞山
【29 子馬(ちゃま)城】
1593年(文禄2年)、宗義智、慶尚南道昌原市鎮海区城内洞山
【30 望津城】
1597年(慶長2年)、島津義弘など、慶尚南道晋州市望京洞
位置・規模からみる倭城の特徴
倭城はすべて山頂あるいは丘陵上に築かれた山城であり、その大半は海岸沿いに位置し、特に港湾部に面して立地している。
このことから、倭城の築城の目的が補給基地としての港湾の確保、朝鮮水軍に対する防御などにあると考えられている。
倭城の機能や役割の違いについては、1593年(文禄2年)5月20日付の豊臣秀吉朱印状に「本城」、「端城(はじろ)」とあり、これまでの研究により以下のⅠ類からⅣ類の4つに分類されている。
まずⅠ類は、倭城の中心となる釜山浦城(地図番号6。以下、数字のみ記す)である。
釜山浦城は朝鮮出兵当初から朝鮮半島に上陸する際の拠点、また物資集積の中心である。
その規模は最大で、釜山浦背後の山頂部に母城を、釜山浦に面する小独立丘に子城(しじょう)を構え、その間に惣構の石塁を巡らせていたものと考えられている。
Ⅱ類は、港湾を確保し拠点となる「御仕置之城(おしおきのしろ)」で倭城の主流である。
蔚山城(1)、西生浦城(2)、林浪浦城(3)、機張城(4)、東萊城(5)、亀浦城(7)、梁山城(8)、金海竹島城(9)、安骨浦城(10)、熊川城(11)、馬山城(12)、固城城(19)、泗川城(20)、南海城(21)、順天城(22)などである。
これらの倭城は、山頂部が総石垣の造りで、登り石垣や竪堀などを備えた大規模な城である。
Ⅲ類は、港湾を監視する小規模な城で、永登浦城(15)、松真浦城(16)、長門浦城(17)の3城で巨済島(きょさいとう)に所在する。
いずれも山頂に石垣で主要部を構築し、海岸へ向けて登り石垣を構えるが、小規模な城である。
そのため、兵士が駐屯するスペースはなく、あくまでも少数の守備兵が眼下の海峡を監視する役割があったと考えられている。
Ⅳ類は、Ⅰ類・Ⅱ類に付属する端城で、追門口城(26)と椎木城(27)が釜山浦城(6)に、馬沙城(24)と農所城(25)は金海竹島城(9)に付属する。
このうち現存する馬沙城(24)と農所城(25)は単郭に近い構造で、石垣は櫓台や虎口に数段が築かれているだけで、切岸の大半も石垣が用いられていない。
以上のように、位置や規模などの違いにより、倭城にはさまざまな機能や役割があったことが分かる。
また、倭城の特徴としては、港や海岸近くの山に立地することに加えて、登り石垣や空堀・竪堀の多用、天守の位置、曲輪配置、縄張りなど日本国内の城とは異な点も多い。
本稿では、位置や規模などに注目したが、次稿では石垣や堀、曲輪配置などの構造面に注目しながら倭城の特徴を探究していきたい。
<主な参考文献>
・織豊期城郭研究会 2014年『倭城を歩く』サンライズ出版株式会社
・中井 均 2021年『秀吉と家臣団の城』株式会社 KADOKAWA
・中井 均 2022年『織田・豊臣城郭の構造と展開 下』戎光祥出版株式会社
(寄稿)勝武@相模
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