【豊臣秀吉と城】豊臣秀吉晩年の城「京都新城」を探究する~史料・絵画類、発掘調査の成果から~

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京都新城の概要

京都新城は聚楽第の破却後の1597年(慶長2年)、豊臣秀吉が京都に新たに築いた政庁で、史料には「太閤御屋敷」、「新城」、「秀頼卿御城」などと記されている。
1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉は没した後、1599年(慶長4年)9月からは豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の屋敷(以下、「高台院屋敷」という)となった。
その後、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いを経て、1624年(寛永元年)に高台院が没した3年後の1627年(寛永4年)、高台院屋敷の跡地に京都仙洞(せんとう)御所・京都大宮御所が造営された。

京都新城は、豊臣秀吉の城の中でも関連する史料や絵図類が少なく、その痕跡も認められなかったために、具体的な姿は不明で、これまで知られることはなかった。
2019年(平成元年)11月から2020年(平成2年)3月にかけて、京都仙洞御所内で実施された発掘調査で石垣や堀、瓦などが発見されたことで、京都新城の一端が明らかになった。

本稿では、史料や絵図類に記載されている京都新城を整理し、2019年年度(平成元年年度)の発掘調査の成果を照合・分析することを通して京都新城の実態に迫る。

史料・絵図類からみる京都新城

京都新城の築城経緯や位置については、貴族や僧侶、神道家などが残した日記から知ることができる。
具体的には、神龍院 梵舜(しんりゅういん ぼんしゅん)の『舜旧記』や山科 言継(やましな ときつぐ)の『言経卿記』、醍醐寺座主(ざす)・義演(ぎえん)の『義演准后(じゅごう)日記』、公家の小槻 孝亮(おづき たかすけ)の『小槻孝亮宿祢(すくね)日記』である。

まず、『舜旧記』1597年(慶長2年)正月24日条に「去廿二日、下京三条下四条之間二、太閤御屋敷江縄張有果而御屋敷不出来」、そして『言経卿記』1597年(慶長2年)正月24日条には太閤京都御屋敷、(中略)、三条坊門マテ四町、又西ハ東洞院ヨリ東ヘ四町也、先在家可立之由有之間」とある。
京都新城は1597年(慶長2年)正月24日から築城の縄張りが始まり、その位置は、当初は三条坊門通から南へ4町、東洞院通(ひがしのとういんどおり)から東へ4町の範囲であったが、すぐに変更された。
『言経卿記』1597年(慶長2年)4月26日条に「太閤早朝ニ屋敷被替也云々、北土御門通ヨリ南ヘ六町、東ハ京極ヨリ西ヘ三町也云々、クイヲ打縄引也云々、町屋悉相替也云々」とあり、京都新城は土御門(つちみかど)通から南へ6町、京極通から西へ3町、すなわち内裏(だいり)の南東に変わった。
その結果、京都新城は現在の京都仙洞御所・京都大宮御所の範囲にあたり、東西約400m・南北約800mの約32万㎡の広大なものとなった。
その理由について、『当代記』1597年(慶長2年)の記述には「地利狭して」と土地の狭さを指摘しているが、詳細は不明である。

次に、『義演准后日記』1597年(慶長2年)4月26日条に「内裏ノ東ワカゼカ池ト云所太閤御所御屋敷ニ御沙汰云々」、また『小槻孝亮宿祢日記』同年月日条には「太閤御屋敷之ハコ瀬カ池ヲ御城之中ニテ、今日御縄張有之」とあり、京都新城には「ワカゼカ池」あるいは「ハコ瀬カ池」と呼ばれる池が存在したことがわかる。
この池のことは、『山城名勝志』(1711年、大島 武好が刊行)には、豊臣秀吉の別館の跡地である仙洞御所の中に所在する「阿古瀬池」の池であると紹介されている。

京都新城は1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が没した後、正室・高台院(北政所)の屋敷となったことが、1599年(慶長4年)9月26日付けの2つの日記の記述から確認できる。
1つは『舜旧記』の「太閤政所大坂ヨリ京之城江移也」、『義演准后日記』の「従小坂(大坂)、北政所京都御殿へ移徙」、2つ目は『言経卿記』の「小坂(大坂)ヨリ政所禁中辰巳角故太閤殿中へ、今日御上洛也、政所御上洛見物」という記述である。
高台院屋敷となった京都新城は、関ヶ原の戦いの直前、1600年(慶長5年)8月29日に豊臣秀頼によって門・塀・石垣が破却されている。
破却の様子は、『義演准后日記』に「京都城今日ヨリ破云々、禁裏御近所故也」、『言経卿記』に「禁中巽方秀頼卿御城ヲ南面御門崩了、内屏先日相崩也」、『時慶記』には「南城ノ屏・石垣壊由候」とある。

絵図類では、『中むかし公家町之絵図』(中井家文書)には、現在の京都仙洞御所・京都大宮御所の場所に「高台院様」と記されている。
京都府立総合資料館|デジタル展覧会「先人達の京都研究」
その規模は東西が西側の張り出しまで含めて約355m(180間)、南北約251m(127.5間)、面積は約89,100㎡で、関ヶ原の戦い直前の破却により敷地は半分以下となった。

高台院屋敷には史料や絵図類から「城の矢倉」や「石垣」、「南面御門」、「内塀」などが存在したことがわかるが、その詳細については不明である。
近年、高台院屋敷の推定位置と聚楽第復元図とを重ねて、京都新城の規模などを把握する研究がおこなわれている。
それによると、高台院屋敷が京都新城の主郭であると想定すると、高台院屋敷、すなわち京都新城の主郭と聚楽第の主郭の規模はほぼ同じであるといいう。
こうした高台院屋敷は、1624年(寛永元年)に高台院が没した後、後水尾(ごみずのお)上皇の仙洞御所となった。

発掘調査の成果

京都新城は現在、京都仙洞御所・京都大宮御所の敷地にあたるため、発掘調査の機会は多くなかった。
2019年(平成元年)11月5日から2020年(平成2年)3月24日にかけて、京都仙洞御所内において消火設備整備工事に伴う発掘調査で、石垣と堀が検出された。

検出された石垣は、南北方向に約8m、高さ約1.0mから約1.6mで、大型の自然石を3~4段、野面積(のづらづ)みしたものである。
ただ、当時はさらに2段程度の築石が積まれており、本来の高さは2.3 ~ 2.4m程であったと推定されており、構築角度は約75 度である。
石垣は花崗岩を中心にチャートや石英斑岩の石材を使用して、その面が直線的に整えられて丁寧に構築されている。

また、堀から16個の築石(つくいし)が発見されているが、そのうち1個の石に、石材を割る際に掘られた「矢穴」が認められる。
矢穴の大きさは、矢穴口の長辺が約6.5 ㎝、短辺が約3㎝、深さは約5.5㎝、矢穴底が丸みをもつ逆台形で、「古Aタイプ」に分類されるものである。
検出された石垣の構築時期は、構築技法や土層の新旧関係、出土遺物などから安土桃山時代のものと考えられている。

堀は石垣の東側にあり、深さは約2.3 m、堀の長さは南北方向に約8m、幅は約3mが検出されたが、京都大学高精度表面波探査により堀の幅は約20mと推定されている。
堀の底面は、厚さ40㎝以上の堅く締まった粘土でつくられており、多量の礫(れき)で一気に埋められた痕跡がある。
この礫層の中からは、石垣を壊した際に落とされたと考えられる築石が16個出土しており、堀の埋め立てと石垣を崩したのが同時期であったことがわかる。

次に、遺物については、堀の中から、金箔軒丸瓦(きんぱくのきまるかわら)4点、金箔軒平(ひら)瓦2点、金箔飾り瓦2点、軒丸瓦1点、飾り瓦1点の計10点の瓦が出土している。
10点とも完形品ではないが、文様などの特徴は以下のとおりである。
【金箔軒丸瓦】
4点のうち3点は金箔五七桐文(きりもん)軒丸瓦で、周縁部が欠損している1点を除き2点には、周縁と桐文の凸部に金箔が認められる。
残りの1点は金箔菊花文(きくかもん)軒丸瓦で周縁はなく、単弁の花弁が凸線の輪郭線で示されており、凹面を含む瓦全面に金箔が施されている。
【金箔軒平瓦】
2点のうち1点は金箔花文軒平瓦で、周縁と花文の凸部に金箔が施されている。
もう1点は金箔唐草文(からくさもん)軒平瓦で、周縁と瓦当(がとう)の凸部に金箔と朱漆(しゅうるし)が残る。
【金箔飾り瓦】
2点のうち、1点は鬼瓦の一部で、花弁の凸面の一部に金箔と朱漆が残り、文様面に径1㎝・深さ2.5㎝の穴が途中まで穿たれている。
もう1点は道具瓦の一部で、わずかな金箔が残存する。
【軒丸瓦】
三巴文軒丸瓦で、右巻きの巴の尾は接しておらず、外側に小粒の珠文がめぐる
瓦当部の裏面上部に丸瓦を当て、粘土を付加して接合している。
【飾り瓦】
三巴文の飾り瓦の一部で、右巻きの巴の尾は接しておらず、巴中心部の円孔の外側に16個の小粒の珠文がめぐる。

出土した瓦は文様や成形技法などから安土・桃山時代のもので、金箔軒丸瓦4点のうち3点は五七桐文、残り1点は菊文といった豊臣家ゆかりの家紋瓦である。
特に、金箔五七桐文軒丸瓦は、伏見城及び城下の大名屋敷群から出土した金箔瓦と類似しており、京都新城で使用された瓦であると考えられている。

京都新城の実態解明に向けて

豊臣秀吉が聚楽第の破却後、1597年(慶長2年)に新たに築いた京都新城については、文献史料や絵図類などが少なく、その位置や構造などについて不明なことが多い。
史料や絵図類からは、京都新城は太閤(豊臣秀吉)の「御屋敷」として造られ、「ワカゼカ池(ハコ瀬カ池)」という庭園があり、豊臣秀吉没後は、高台院の屋敷となり、「城の矢倉」、「石垣」、「南面御門」、「内塀」などが存在したことはわかるが、詳細は不明である。
2019年(平成元年)年度の仙洞御所内で実施された発掘調査では、京都新城について新たな知見を得ることができた。
この発掘調査では、石垣や堀が検出され、金箔瓦を含む瓦が出土しているが、瓦の紋様や年代観などから、石垣や堀は京都新城のものであることが判明している。

現時点では、京都新城の構造などについて、文献史料・絵図類からの情報を発掘調査成果と照合することで、次のことが指摘されている。
1つは、石垣の上部が壊され、堀が埋め立てられた痕跡は、関ヶ原の戦い(1600年)の直前に、豊臣秀頼が門・塀・石垣を破却したという記述と合致すること。
2つ目は、高台院屋敷は京都新城の主郭を引き継いでいると考えられ、その主郭は、聚楽第の主郭の規模はほぼ同じであること。
3つ目は、石垣、堀は、寛永期(1624年~1644年)の京都仙洞御所との位置関係などから、京都新城の内郭(主郭)と外郭を区画するものと考えられること。

以上のように、発掘調査の成果と史料や絵図類の照合・分析から、京都新城の実態が解明されつつあるが、未だ多くの課題が残る。
京都新城は1597年(慶長2年)に築かれたが、その時期の豊臣秀吉には、伏見城(京都市伏見区)や大坂城(大阪市中央区)などの居城があり、なぜ、京都新城を築く必要があったのであろうか。
豊臣秀次の失脚(1595年)に伴う聚楽第の破却後、京における豊臣政権の新たな政庁として京都新城を築いたと考えられる。

それでは、豊臣秀吉の没後、後継者の豊臣秀頼が居住することなく、高台院の屋敷となったのはなぜなのか。
高台院屋敷となった京都新城は、関ヶ原の戦い直前に、豊臣秀頼によって破却されている。
その理由については、戦いに巻き込まれないよう破却したという説や、禁裏(きんり・天皇の御所)に近いから破却したという説もあり、実際のところは不明である。

以上のことから、京都新城は聚楽第の代わりの政庁ではなく、また城郭というよりも屋敷であったのではないか、とも考えられる。
2019年(平成元年)年度の発掘調査で検出された石垣や堀は、内郭(主郭)と外郭を区別するもので、京都新城は聚楽第の縄張り(構造)を踏襲した輪郭(りんかく)式の縄張りと考えられている。
しかし、発掘調査面積は125㎡と狭く、石垣や堀の全体像は不明であり、天守の有無など建造物の痕跡も検出されていない。
京都新城の構造や性格などを考えるには、今後も発掘調査で新たな情報が得られることが必要であるが、京都仙洞御所・京都大宮御所の敷地になっているため、それほど期待できないのが残念である。

<主な参考文献>
・池上 裕子 2002年『日本の歴史 第15巻 織豊政権と江戸幕府』講談社
・西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
・平井 聖、他 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社
・財団法人京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館 2010年『京都市考古資料館開館30周年記念 京都 秀吉の時代 ~つちの中から~』
「平安京左京一条四坊十町跡・公家町遺跡・京都新城跡」
「京都新城の発見―京都仙洞御所消火設備整備ほか工事に伴う発掘調査」

(寄稿)勝武@相模

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