【戦争と城】太平洋戦争で失われた城を探究する~空襲・原爆投下で被災した旧国宝天守を中心として~

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概要

2025年(令和7年)8月15日は、日本がアメリカ・イギリスなどの連合国と戦った太平洋戦争の80回目の「終戦の日」である。
太平洋戦争は、1941年(昭和16年)12月8日、日本陸軍がイギリス領マレー半島に奇襲上陸し、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃して始まった。
開戦当初は、日本が優勢であったが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦での敗北を機に戦局は悪化していった。

1944年(昭和19年)後半以降は、アメリカ軍機による本土空襲が激化し、1945年(昭和20年)8月6日に広島、8月9日には長崎に原爆が投下された。
それに沖縄戦、ソ連の宣戦布告などが加わり、日本の敗北は必至となり、無条件降伏を求めるポツダム宣言を受諾して1945年(昭和19年)8月15日、太平洋戦争は終結したのである。

1944年(昭和19年)後半から本格化した本土空襲は、1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、原爆投下を含めて日本全国で200ヶ所以上の都市が被災した。
空襲・原爆による被害は約223万戸、約970万人に及び、また、先人が想いを込めてつくり、守り続けてきた多くの貴重な文化財も失なわれた。
その中には、1873年(明治6年)の廃城令後も破却を免れ、1929年(昭和4年)の国宝保存法で国宝(以下、「旧国宝」という。)に指定された豪壮華麗な天守をはじめ、貴重な城郭建築が多く含まれている。

本稿では、名古屋城(名古屋市中区・北区)、岡山城(岡山市北区)、和歌山城(和歌山市)、広島城(広島市中区)、福山城(広島県福山市)、大垣城(岐阜県大垣市)の旧国宝天守を中心に、空襲・原爆による被災状況やその後の復興について探究する。

名古屋城天守・本丸御殿

名古屋城は、徳川家康(とくがわ いえやす)が1610年(慶長15年)2月から「天下普請(ぶしん)」によって築城した平城である。
明治維新まで、徳川家康の9男・徳川義直(よしなお)を初代とする尾張藩主・徳川家17代の政庁兼居城として機能した。

名古屋城の構造は、本丸の南東に二の丸、南西に西の丸、北西と北に御深井丸(おふけまる)を配置した梯郭式で、方形の各曲輪は空堀で囲まれている。
本丸の北西隅には大天守と小天守を橋台(きょうだい)で連結した連立式天守や本丸御殿が所在する。

大天守は5重5階・地下1階、3階以上は順に面積が減じる層塔型で、延べ面積は我が国最大であったという。
屋根は、1重目が本瓦、2重目以上が銅瓦で葺かれ、2重目以上には平側(長辺側)、妻側(短辺側)ともに多様な破風(はふ)が付く。
比翼千鳥(ひよくちどり)破風、軒唐(のきから)破風、千鳥破風、入母屋(いりもや)破風であり、最上の5重目の屋根には、南北方向の棟(むね)の両端に金鯱(きんしゃち)が飾る。
天守の内部は、各階とも外壁の内側に厚板を張り、防備を強化していることが特異であるという。

小天守は大天守の南側に橋台で連結し、2重2階、地下1階、1重目の平側の両面に千鳥破風を設け、2重目は入母屋造りで両端に鯱を飾る。

本丸御殿は1615年(慶長20年)に政庁兼藩主の居館として建てられたが、1620年(元和6年)に将軍上洛時の御成御殿として改修された。
建築当初は玄関・表書院(広間)・対面所・下御膳所(しもごぜんしょ)・孔雀(ぐじゃく)之間などの部屋があった。
1633年(寛永10年)、3代将軍・徳川家光の上洛(1634年)に備えて、上洛殿(書院)・湯殿(ゆどの)書院・黒木書院・上(かみ)御膳所などが新たに増築された。
本丸御殿の各部屋は、格式や用途ごとに天井や欄間、障壁画などのつくりや意匠が多様で、「武家風書院造」の格式の高い御殿建築であった。

明治維新後も本丸は保存され、名古屋鎮台の司令部が置かれ、次いで宮内省の管轄となり「名古屋離宮」と称せられていた時期もあった。
1930年(昭和5年)、名古屋城は宮内省から名古屋市へ下賜され、保存されていた大天守・小天守、本丸御殿など24棟の建物が旧国宝に指定された。

1945年(昭和20年)5月14日早朝の名古屋大空襲で、大天守・小天守、本丸御殿など旧国宝を含む多くの貴重な建物が焼失した。
ウィーン万国博覧会(1873年)に出品され、世界でも人気を博した金鯱も焼失したが、金鯱を避難させるための足場に焼夷弾が引っかかり、そこから上がった火炎が城全体に広がったという。

焼失した大天守・小天守は、1959年(昭和34年)に名古屋市政70周年記念事業として、鉄筋コンクリート造りで再建された。
本丸御殿は、2009年(平成21年)に復元工事が始まり、2013年(平成25年)に玄関・表書院、2016年(平成28年)に対面所・下御膳(さげごぜん)所がそれぞれ公開され、2018年(平成30年)に上洛殿が完成して全面公開されている。
復元整備にあたっては、空襲時に別のところに保管されていた障壁画や、美術工芸品、戦前の写真、実測図など、第一級の資料が残されていたため、忠実な復元が可能であったという。

岡山城天守

岡山城は、1597年(慶長2年)に豊臣政権下の有力大名・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)が古城を近世城郭に築き直した平山城である。
1600年(慶長5年)の関ヶ原戦い後は、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)が城主となったが、1603年(慶長8年)以降は岡山藩主・池田家の政庁兼居城となり、高石垣の構築、本丸書院の増築などの拡張がおこなわれた。
岡山城の構造は本丸を中心に、南西部に二の丸、三の丸を配した梯郭(ていかく)式の平山城で、本丸は本段、中の段、下の段からなる。

天守は本丸本段の北寄りに1597年(慶長2年)に建てられ、その西面に塩蔵(えんぞう)が付属する。
4重6階の天守は、1・2階は石垣に沿って不整5角形を呈し、3・4階は矩形、さらに5・6階は方形という特異な望楼(ぼうろう)型である。
これは、多角形平面の天守台を持つ織田信長(おだ のぶなが)築城の安土城(滋賀県近江八幡市)を模したものと伝わる。
屋根は、1重目の西北角に唐破風が付き、2重目・3重目とも東西棟の入母屋造りで、その南北面の屋根上には、2重目に入母屋屋根、3重目には唐破風が付く。
最上の4重目は、南北棟の入母屋造りの望楼をあげ、妻側は木蓮格子(きつれごうし)で、金箔瓦が使用されていたという。
外壁は黒漆塗(くろうるしぬり)の下見板張りで、この印象から「鳥城(うじょう)」とも呼ばれ、白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の「白鷺城(はくろじょう)」こと姫路城(兵庫県姫路市)と対比された。

このような特異な構造の天守は、明治維新後の廃城令(1873年)でも取り壊されることはなく、1931年(昭和6年)には旧国宝に指定された。
天守は1945年(昭和20年)6月29日未明の岡山大空襲で図面とともに焼失し、天守台の石垣も焼けて赤く変色した。
また、1997年度(平成9年度)の史跡整備に伴う発掘調査では、天守台の北側石垣の下から被災した瓦が出土し、変色した石垣とともに空襲の凄まじさを今に伝えている。

焼失した天守は、1966年(昭和41年)に岡山市出身の大学生が戦前にまとめた実測図を基にして鉄筋コンクリート造りで再建された。
再建天守は、2021年(令和3年)6月から2022年(令和4年)11月まで、耐震化やバリアフリー化に伴う大規模な改修がおこなわれた。

和歌山城天守群

和歌山城は1585年(天正13年)、豊臣秀長(とよとみ ひでなが)が兄・豊臣秀吉(ひでよし)の命で、紀ノ川河口部の「岡山」(現在の虎伏山)に築城したのが始まりである。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの功により浅野幸長(あさの ゆきなが)が37万6千石を与えられて入城した。
1619年(元和5年)、2代目の浅野長晟(ながあきら)が安芸(広島県)に移封となり、代わりに徳川家康の10男・徳川頼宣(よりのぶ)が55万石5千石で入城した。
徳川頼宣は1621年(元和7年)から大規模な改修をおこない、以後、和歌山城は徳川御三家の紀伊藩主・徳川家の政庁兼居城として明治維新を迎えた。

和歌山城の構造は、山頂に天守曲輪、一段下がって本丸、本丸の北側にニの丸、その外に広大な三の丸を配した梯郭式の平山城で、その他に西の丸、南の丸、南西に砂の丸があった。
本丸の西には天守曲輪があり、曲輪塁上に大天守・小天守・乾(いぬい)櫓・2の門櫓・二の門がそれぞれ多聞(たもん)櫓で連結する天守群を構成した。
この天守群は1846年(弘化3年)7月26日の落雷で全焼し、1850年(嘉永3年)に再建された。

大天守は3重3階で、その平面は1階が地形に応じて東南隅が鋭角となる菱形、2・3階は矩形と不格好である。
それは1846年(弘化3年)7月、旧天守が焼失した後、5重天守を再建する計画であったのが、結果的に3重の天守になったからだと考えられている。
屋根は1重目の西面2カ所に千鳥破風、2重目は南面に入母屋破風、北面に千鳥破風、東西面に唐破風を付け、3重目は東西棟の入母屋造で、大棟に鯱が飾られている。
外観は1・2階とも大壁造りの塗籠(ぬりごめ)で、3階には4面すべてに左右に引き分ける土戸(つちど)があり、高欄がめぐる。
天守内部では、1階の武者走りに武具を置くための棚を設け、3階に昇る階段口に蓋があることが注目されている。

小天守は大天守の北に位置し2重2階、1階の平面は地形の制約により北東部を隅切とした五角形で2階は方形を呈する。
大天守へ通じる小天守の玄関は、優美な唐破風が付く御殿風の出入り口であるが、内部から大天守に続く出入口は、分厚い頑丈な扉で閉じられていたという。

大天守・小天守と2基の櫓を多門櫓で結ぶ天守群は、姫路城、伊予松山城(愛媛県松山市)とともに「三大連立式天守」として知られていた。
明治維新後の廃城令(1871年)で岡山城の多くの建物が解体もしくは移築されたが、天守群は残り1935年(昭和10年)に旧国宝に指定され、和歌山市のシンボルであり続けた。
しかし、1975年(昭和20年)7月9日深夜からの和歌山大空襲で焼失し、1958年(昭和33年)、天守群は鉄筋コンクリート造りで再建された。

広島城天守

広島城は1589年(天正17年)、毛利輝元(もうり てるもと)が築城を開始し、1591年(天正19年)には入城しているが、完成したのは1599年(慶長4年)であったことが記録に残る。
関ヶ原の戦い(1600年)後、毛利輝元が減封されて福島正則(ふくしま まさのり)が入城すると、外郭の整備などの大規模な改築がおこなわれた。
1619年(元和5年)、福島正則は無届けで城の修理をおこなったことを理由に改易となり、浅野長晟が入城した以降は、広島藩主・浅野家の政庁兼居城として明治維新を迎えた。

広島城は内堀・中堀・外堀の三重の堀と、西側を流れる太田川に囲まれ、本丸・二の丸・三の丸・外郭からなる輪郭(りんかく)式の平城である。
毛利輝元は築城にあたり、聚楽第京都市上京区)を参考にしていることが、聚楽第の史料や絵図などから確認されている。

天守は、大天守と南と東の2つの小天守を渡(わたり)櫓で結ぶ連結式である。
その建築時期については、1592年(天正20年)4月頃の書状に天守を見た、との記載がある一方、建築学的な観点から1598年(慶長3年)前後に建てられたとの説がある。
大天守は5重5階の望楼型天守で、3階以上は階を追うごとに面積が縮小し、5階には廻縁があり高欄がめぐる。
屋根には金箔瓦が葺かれ、2重目が入母屋造りで、平側は南北面に千鳥破風が2カ所ずつ付き、3重目は入母屋造りで、5重目は南北棟の入母屋造りである。
外壁は黒漆塗りの下見板が張られ、豊臣大坂城の天守を模したと考えられており、約26.6mの高さとともに、豪壮華麗な天守であったことを讃えた記録が残されている。

明治維新後、1871年(明治4年)7月の廃藩置県で広島県が発足すると、本丸には広島県庁舎が置かれたが、同年12月以降は陸軍の施設が置かれるようになった。
1894年(明治27年)9月には、日清戦争開戦に伴い、明治天皇と大本営が広島城内に移っている。
この間、小天守は撤去されたが、大天守は残り1931年(昭和6年)に旧国宝に指定された。

しかし、1945年(昭和20年)8月6日のアメリカ軍による原爆投下で、爆心地から約980mの地点にあった広島城天守は倒壊した。
倒壊の状況については、衝撃波通過後の気圧低下による吹き戻しや石垣や地面からの反射波など複雑な圧力がかかったこと、天守は原形のまま建物の重心を北側に移動するように崩落したとみられることなどが指摘されている。

戦後、1951年(昭和26年) に広島で開催された「第6回国民体育大会」で木造仮説天守が作られ、国体終了後に解体されたが、広島市民の間で天守の再建を求める声が高まったという。
1953年(昭和28年)に広島城跡が国の史跡指定を受けると、天守再建の機運は高まり、1958年(昭和33年)年に「広島復興大博覧会」の開催に合わせて、鉄筋コンクリート造りで再建された。
天守の復元にあたっては、忠実な復元を試みた一方で、意匠が異なる窓を復元したり、1・2階に窓を新設したりするなど、戦災以前の外観とは異なることが指摘されている。
なお、この再建天守は耐震強度不足や老朽化などを理由に2026年(令和8年)3月で閉館し、木造による再建が検討されている。

福山城天守

福山城は、1622年(元和8年)に徳川家康の従弟・水野勝成(みずの かつなり)によって築かれた、大規模な近世城郭として最新の城である。
築城にあたっては、伏見城(京都市伏見区)から伏見櫓や御殿、御湯殿(おゆどの)、鉄御門、追手御門、多聞櫓などが移され、江戸幕府から資金が貸与されるなど特別な扱いを受けた。

福山城の構造は、本丸を中心に、二の丸・三の丸が取り囲む輪郭式で、三の丸の周囲に広がる城下町は総構えで囲まれた。
本丸と二の丸には、併せて櫓22棟と長大な多聞櫓が配され、そのうち三重櫓は7棟と、大坂城(12棟)、岡山城(11棟)に次ぐ3番目の多さで、また、多聞櫓の総延長も大坂城、名古屋城に次ぐ3番目の長さであった。
これらのことは、一国一城令発布(1615年)後に江戸幕府の西国鎮衛(ちんえい)の拠点として新規に築城された城としては異例な構造であり、福山城の重要性が知られる。

天守は5重6階で、南側に2重の付庇(つけひさし)が付随し、東南隅には2重3階の付櫓が連結する層塔型天守である。
屋根は、1重目の東西2面に大規模な千鳥破風、南北2面に小型の千鳥破風が2ヶ所、2重目は東西面に2ヶ所、南北面に1ヶ所に千鳥破風が付く。
また、3重目は東西面に千鳥破風、南北面に軒唐破風がそれぞれ1ヶ所に付き、4重目は3重目とは逆になり、5重目の屋根は東西棟の入母屋造りである。

外観は、東・西・南の三面が白色の漆喰(しっくい)で塗り固めた総塗籠造りであるのに対し、北側全面には最上階を除いて黒色の鉄板が張られていたが、これは全国の天守の中で唯一の事例である。
最上階は廻縁をめぐらし高欄を設け、風雨を防ぐ突き上げ板戸(いたど)が付けられた。

福山城の城主は水野家から松平家、阿部家と交代して明治維新を迎えると、廃城令(1873年)により多くの建物が売却・解体され、天守、伏見櫓、御湯殿などわずかな建物が残されるだけとなった。
天守は破損していたが、修復費の確保ができず、福山町民からの寄付金で1897年(明治30年)になって修理がなされた。
天守は1931年(昭和6年)に旧国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)8月8日深夜の福山大空襲で御湯殿(旧国宝)らの建物とともに焼失した。

戦後、1966年(昭和41年)、天守は鉄筋コンクリート構造により再建されたが、天守北側の黒い鉄板張りや最上階の板戸がなく、窓の形状や配置など焼失前の天守とは異なる箇所が多かった。
2020年(令和2年)から2022年(令和4年)の築城400年を記念した大改修で、焼失前の天守と同じ外観となる復元がおこなわれ、全国唯一とされる天守北側の鉄板張りも甦った。

大垣城天守

大垣城は、1535年(天文4年)に宮川安定(みやがわ やすさだ)が築城し、1563年(永禄6年)年に氏家直元(うじいえ なおもと)が拡張したと伝わる。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、城主・伊藤盛宗(いとう もりむね)が西軍に属したことで、石田三成(いしだ みつなり)らの西軍の本拠地となった。
江戸時代になると、石川氏、松平氏、岡部氏などが短い期間で入れ替わり城主を務めた。
1635年(寛永12年)に戸田氏鉄(とだうじかね)が入城した以降は、大垣藩主・戸田家の政庁兼居城として明治維新を迎えた。

大垣城の構造は、本丸と二の丸を並郭式に並べ、その周囲を三の丸で囲い、外郭を惣構えで囲んだ。
天守は、本丸の北西隅に位置し、1595年(慶長元年)に建てられ、1620年(元和6年)に改築された4重4階の層塔型である。
屋根は、1重目の4面の両端近くに小型の千鳥破風を2個、2重目の4面に大型の千鳥破風がそれぞれ付きく。
最上の4重目は東西棟の入母屋造りで、大棟の両端には鯱が飾られている。

天守の部材は、改築がおこなわれたことを反映して、1・2階よりも3・4階の方が新しいという。
また、天守内部では、3階南面の千鳥破風入込み間の屋根裏に便所の施設があること、4階は天井長押を廻して竿縁天井(さおぶちてんじょう)としていることが、特異であるという。

廃城後も破却を免れた天守は、1936年(昭和11年)に旧国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)7月29日夜半の大垣空襲で焼失した。
天守は1959年(昭和34年)に郡上八幡城(岐阜県郡上八幡市)を参考に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、観光用に窓を大きくするなど、焼失前の天守とは異なっている。
ちなみに、郡上八幡城の現在の模擬天守は、1933年(昭和8年)に大垣城を参考にしている。
2008年(平成20年)8月、市民有志が大垣城天守の木造再建案を大垣市に対して提言したが、今のところ具体的な動きはないという。

戦争と文化財保護

織田信長の安土城を源流とする天守は、多くの近世城郭に建てられ、江戸時代を通じて豪壮華麗な姿を誇示した。 
現在、文化財として現存する天守は12城にあり(「現存12天守」)、そのうち、松本城(長野県松本市)、犬山城(愛知県犬山市)、彦根城(滋賀県彦根市)、姫路城、松江城(島根県松江市)の5城の天守が国宝に指定されている(「国宝5天守」)。
現存天守は、日本の歴史や文化を象徴する貴重な文化財として、その美しさや高度な建築技術は、外国人を含め多くの人々を魅了している。

こうした歴史的価値が高い現存天守は、明治維新後も地域の人々に守られながら、昭和前半(1945年4月)までは、天守相当の櫓を含めると20城の天守が現存した。
それが、本稿で取り上げた名古屋城・岡山城・和歌山城・広島城・福山城・大垣城の7城の旧国宝天守と、水戸城(茨城県水戸市)の天守扱いの「御三階櫓」が、太平洋戦争末期の空襲や原爆により焼失した。
また、1949年(昭和24年)に松前城(北海道松前町)の旧国宝天守が失火によって焼失し、現在は12天守が現存しているのみである。

前述した7城の旧国宝天守が被災した背景としては、明治維新後の日本の近代都市が江戸時代に各藩の政庁兼居城であった城を中心に発展したことが考えられる。
明治維新後の城には軍の施設や官庁が置かれ、高層建築の天守は目立ち、爆撃の目標になりやすかった。
そのため、空襲・原爆による城の被害は甚大で、7城の旧国宝天守もすべてが一瞬で焼失・倒壊した。
空襲・原爆は、単に桃山時代や江戸時代初期を代表する優れた城郭建築を破壊したにとどまらず、これらを守り続けてきた先人たちの想いをも打ち砕いたのである。

被災した7城の旧国宝天守は、戦後、昭和30・40年代(1955年~1974年)の「天守閣復興ブーム」の中で、鉄筋コンクリート造りで再建されている。
ただし、広島城や大垣城の天守に窓について、異なる復元がおこなわれ、福山城天守で黒い鉄板張りが復元されていないことなどが指摘されている。
また、天守内部は、展示施設などとして利用されているため、名古屋城や和歌城の天守にみられる特異な構造が再現されないなど、鉄筋コンクリート造りの外観復元では限界がある。
その中で、福山城天守が 2022年(令和4年)の大改修で、鉄板張りも含めて焼失前と同じ外観に復元されたことは称賛に値する。

各地に残る城は、日本の歴史や文化を伝える貴重な文化財であり、適切に保存・活用しながら、次世代に引き継いでいくことが求められている。
世界的には、第2次世界大戦での文化財の破壊を契機に1954(昭和29)年5月、「武力紛争の際の文化財保護条約」(1954年ハーグ条約)が採択され、1956(昭和31)年に発効した。
この条約は、平時において文化財保護の適当な措置をとることや、、武力紛争の際に文化財を尊重することなどを定めており、さらに2つの議定書(1956年・2004年)で文化財の破壊を禁じている。
それにも関わらず、2022(令和4)年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻では、ウクライナの貴重な文化財が空爆などにより破壊され続けていることは、人類すべてにとって悲しいことである。

太平洋戦争の終戦80年を機に、戦争や紛争による文化財の破壊が、歴史や文化、アイデンティティを失なわせ、未来の人類にも影響を与えることを、改めて認識したい。

<主な参考文献>

・西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
・文化財保護委員会 1964年『戦災等による焼失文化財 (建造物篇 城郭)』
名古屋城公式ウェブサイト
岡山城を知る – 岡山城の歴史 | 【公式】岡山城ウェブサイト
広島城の歴史 | 広島城
福山城博物館
大垣城 | 大垣市公式ホームページ/水の都おおがき

(寄稿)勝武@相模

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(寄稿)勝武@相模

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