【豊臣秀吉と城】「聚楽第」の大名屋敷を探究する~浅野文庫『諸国古城之図』所収の聚楽第の絵図を資料として~

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聚楽第」の概要

聚楽第(じゅらくてい)は、関白となった豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が1586年(天正14年)2月に着工し、翌1587年(天正15年)9月に完成した京都における政庁兼居城である。
聚楽第内外には諸大名の屋敷も建ち並び、1588年(天正16年)4月には後陽成(ごようぜい)天皇の聚楽第行幸(ぎょうこう)がおこなわれるなど、聚楽第は豊臣政権の権力を象徴する城であった。

1591年(天正19年)12月、豊臣秀吉は甥の豊臣秀次(ひでつぐ)に関白職とともに聚楽第を譲った。
しかし、1595年(文禄4年)年7月、豊臣秀次が失脚すると、聚楽第も築城からわずか8年で徹底的に破壊された。
その後、聚楽第の跡地には町家が建てられ、聚楽第の位置や範囲、構造などについては、江戸時代の早い時期から不明で「幻の城」と呼ばれていた。

近年、文献史料や古絵図、絵画資料、考古資料などを照合・分析する総合的な研究が進み、聚楽第の構造や建物の様子が明らかになりつつある。
このことについては、以下のサイトで紹介しているので参照いただきたい。
【豊臣秀吉と城】幻の城「聚楽第」の構造・建物を探究する~絵画資料・文献史料・考古資料から~

本稿では、古絵図をもとに聚楽第の大名屋敷の位置や規模、屋敷の主である大名の経歴などについて探究する。

「聚楽第」外郭内の大名屋敷

聚楽第の大名屋敷を知るうえで参考となる絵図に、浅野文庫『諸国古城之図』(広島市立中央図書館蔵)」所収の「聚楽(山城)」図(以下、「聚楽第図」という)がある。
『諸国古城之図』は1683年(天和3年)ごろに作成された全国の著名な古城177ヶ城の絵図を集成したものである。
「諸国古城之図」より

この聚楽第図によると、聚楽第は長方形の本丸に小規模な南二之丸と西之丸が付く内郭と、それを取り囲む外郭からなり、外郭の内外に諸大名の屋敷が記されている。
外郭内の大名屋敷としては、南門を入ってすぐ東側に「大和大納言」、その北隣に「浅野弾正」、南門の西側には「三好孫七郎」、その北隣に「丹波少将」とある。
「大和大納言」は豊臣秀吉の弟で、調整役として豊臣政権で重きをなした豊臣秀長(ひでなが)のことである。
豊臣秀吉が織田信長(おだ のぶなが)の家臣のときから政務面・軍事面で支え、豊臣秀吉の天下統一に大いに貢献した。
1585年(天正13年)8月、四国平定の戦功を賞されて大和国(奈良県)を加増され、1587年(天正15年)8月には九州平定の功績により従二位・権大納言(ごんだいなごん)に任じられ、「大和大納言」と称された。

「三好孫七郎」は豊臣秀吉の甥で養子となり、関白職と聚楽第を譲られた豊臣秀次のことである。
豊臣秀次は豊臣秀吉の姉の子として生まれ、畿内で勢力を誇った三好一族の三好康長(みよし やすなが)の養嗣子となり、通称を「孫七郎」に改め、三好信吉(のぶよし)と名乗った。
豊臣秀吉が天下統一を進める中、羽柴姓にもどった豊臣秀次は、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで大失態を演じたが、1585年(天正13年)の紀伊平定・四国平定で戦功をあげ、豊臣姓を下賜された。
1591年(天正19年)12月、豊臣秀次は豊臣秀吉から関白職を譲られ、聚楽第の城主となった。
しかし、1595年(文禄4年)7月、強制的に出家させられ高野山(和歌山県高野町)で自害し、聚楽第も徹底的に破壊された。

「浅野弾正」は豊臣秀吉の相婿として信頼が厚く、豊臣政権の五奉行の一人である浅野長政(あさの ながまさ)のことである。
織田信長の命で豊臣秀吉の与力となり、1582年(天正10年)の本能寺の変後は豊臣秀吉の重臣として行政・軍事面で功績を重ねた。
1588年(天正16年)に従五位下・弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任じられ、1592年(天正20年)には豊臣姓を下賜された。

「丹波少将」は豊臣秀次の弟で、叔父の豊臣秀吉の養子となった豊臣秀勝(ひでかつ)のことである。
豊臣一族の一人として九州平定(1587年)に参陣し、1558年(天正16年)に豊臣性を下賜された。
同年4月の後陽成天皇による聚楽第行幸の時には、「丹波少将豊臣秀勝」の署名で起請文に連署している。

次に、聚楽第西門から塀に沿って北へ「蒲生飛騨守」、「加賀筑前守」、そして北西隅に「金吾中納言・細川中越守」とある。
「蒲生飛騨守」は織田信長に寵愛されて婿となり、豊臣秀吉にも重用された蒲生氏郷(がもう うじさと)のことである。
織田信長の家臣時代は柴田勝家(しばた かついえ)の与力として、本能寺の変(1582年)後は豊臣秀吉に従って多くの戦いに参加して戦功をあげた。
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い後、伊勢松ヶ島12万石に加増・転封となり、「羽柴」の名字を与えられた。
1586年(天正14年)に従四位下・侍従(じじゅう)に、1588年(天正16年)4月には正四位下・左近衛少将(さこんえのしょうしょう)に任じられ、豊臣姓を下賜された。
1588年(天正16年)に松坂城(三重県松阪市)を新たに築城し、松ヶ島から武士や商人を強制的に移住させて城下町をつくり上げた。
『聚楽第図屏風』には蒲生氏郷の屋敷地に「松ケ島侍従」という張り紙があるのは、松ヶ島城主のときに侍従(じじゅう)に任じられたことを踏まえたものである。
1590年(天正18年)の奥州仕置で陸奥国会津に92万石で移封され、黒川城(福島県会津若松市)を改築して鶴ヶ城と名付けた。

「加賀筑前守」は五大老の一人、豊臣秀頼の守役として豊臣政権で重きをなした前田利家のことである。
14歳のときに織田信長に仕え、柴田勝家(しばた かついえ)の与力として北陸方面の制圧に功績をあげた。
1583年(天正11年)の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家が敗れた後は、旧交があった豊臣秀吉に従い、本領の能登国(石川県)に加えて加賀国(石川県)の一部を領した。
1586年(天正14年)には羽柴の姓を与えられて筑前守・左近衛権少将に任じられ、1588年(天正16年)には豊臣姓も下賜された。

「金吾中納言」は豊臣秀吉の正室・高台院(こうだいいん)の甥で、豊臣秀吉の後継者候補の一人であった小早川秀秋(こばやかわ ひであき)のことである。
1584年(天正12年)、小早川秀秋が2歳のときに豊臣秀吉の養子になり高台院に育てられた。
1588年(天正16年)4月、後陽成天皇の聚楽第行幸の際、内大臣・織田信雄(のぶかつ)以下の6大名が連署した起請文に「金吾殿」と記されているが、このとき、小早川秀秋はわずか6歳であった。
1591年(天正19年)に豊臣姓を下賜され、1592年(文禄元年)には従三位・権中納言兼左衛門督(さえもんのかみ)に任じられ「丹波中納言」と呼ばれた。

「金吾中納言」と併記されている「細川中越守」は、「細川越中守」の誤記で細川忠興(ほそかわ ただおき)のことと考えられている。
細川忠興は父・細川藤孝(ふじたか)ともに織田信長に従い、その命で明智光秀の三女・玉子(ガラシャ)と結婚した。
本能寺の変(1582年)では岳父の明智光秀に従わず、妻・玉子を幽閉した後、豊臣秀吉に誼を通じて丹後(京都府)一国の平定を成し遂げた。
1585年(天正13年)に従四位下・侍従に任じられ羽柴姓を与えられ、1588年(天正16年)には豊臣姓を下賜された。
小早川秀秋と屋敷を並べるほどの親密な関係であったかは不明である。

小早川秀秋(「金吾中納言」)・細川忠興(「細川中越守」)の屋敷の右隣から東へ向けて「政所」・「蔵」・「有馬法印」とある。
「政所」は豊臣政権下の京都所司代の白洲(しらす)で、「有馬法印」は「前田法印」の誤記と考えられている。
「前田法印」は豊臣政権の五奉行の一人で民部卿法印(みんぶきょうほういん)の官位をもつ前田玄以(げんい)のことである。
もとは織田信長の嫡男・織田信忠(のぶただ)付の家臣で、本能寺の変(1582年)の際は織田信忠の命で、その嫡男・三法師(のちの織田秀信)を岐阜城(岐阜県岐阜市)から清州城(愛知県清須市)へ移した。
1584年(天正12年)、豊臣秀吉に仕えると京都所司代(しょしだい)として朝廷との交渉役を務め、後陽成天皇の聚楽第行幸(1588年)では奉行として活躍した。

聚楽第東門から北へは「堀久太郎」、「長谷川藤五郎」、「此屋敷不知」、「宗益」とある。
「堀久太郎」は豊臣秀吉の天下統一に大いに貢献した堀秀政(ほり ひでまさ)のことである。
堀秀政は織田信長の側近として奉行職を務めるとともに戦場でも活躍し、本能寺の変(1582年)の直前には明智光秀に代わって徳川家康(とくがわ いえやす)の接待役を務めた。
その後、堀秀政は豊臣秀吉の家臣となり、1582年(天正10年)10月20日付の書状で、豊臣秀吉一族以外で初めて「羽柴」の使用が許されている。
九州平定(1587年)で戦功をあげ、翌年に豊臣姓を下賜されたが、小田原平定(1588年)に参陣中に病死した。

「長谷川藤五郎」は織田家奉行として活躍し、本能寺の変(1582年)直前に徳川家康が上洛した際、堺を案内した長谷川秀一(はせがわ ひでかず)のことである。
本能寺の変(1582年)後は豊臣秀吉の家臣になり、1583年(天正11年)10月23日の津田宗及(そうきゅう)の茶会から「長谷川藤五郎秀一」と名乗った。
その後、紀州平定(1585年)や九州平定(1587年)に参陣して戦功をあげ、1588年(天正16年)に豊臣姓を下賜された。

「宗益」は織田信長・豊臣秀吉に茶人(「茶堂」)として仕え、名声を高めた千利休(千宗易)のことである。
本能寺の変(1582年)後は豊臣秀吉に仕え、1585年(天正13年)10月、豊臣秀吉が正親町(おうぎまち)天皇へ献茶する際、宮中に参内するめに居士号「利休」を勅賜された。
豊臣政権内でも政治権力を高め、豊臣秀長をして「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と言わしめている。

「聚楽第」外郭外の大名屋敷

聚楽第図には外郭の外側に所在した諸大名の屋敷も記されている。
「諸国古城之図」より

南門の外の西側には「中村式部太輔」、一区画あけてその西に「堀尾帯刀」、南門の東側に「小寺實宰・貫之□」とある。
中村式部太輔」は「中村式部少輔」の誤記で、中村一氏(なかむら かずうじ)のことと考えられ、「堀尾帯刀」は堀尾吉晴(ほりお よしはる)のことである。
両者とも豊臣秀吉が織田信長の家臣であったころから従い、豊臣政権の三中老として知られている。
中村一氏は1585年(天正13年)に従五位下・式部少輔(しきぶのしょう)に、堀尾吉晴は九州平定(1587年)の従軍後に正五位下・帯刀長(たちはきのおさ)に任じられている。
小田原攻め(1590年)では宿老(しゅくろう)を務めていた豊臣秀次の軍に属して、山中城(静岡県三島市)攻めで戦功をあげた。

戦後、中村一氏は駿河国(静岡県東部)14万石を、堀尾吉晴は遠江国(静岡県西部)12万石に封じられ、中村一氏は駿府城(静岡県静岡市)、堀尾吉晴は浜松城(静岡県浜松市)を居城とした。
いずれもの領国も関東へ移封となった徳川家康の旧領で、徳川家康への押さえとしての役割を期待されたのであろう。
「小寺實宰」は浅井長政(あざい ながまさ)の家臣であった人物とされているが、豊臣秀吉との関係など詳細は不明である。

中村一氏(「中村式部太輔」)及び堀尾吉晴(「堀尾帯刀」)の屋敷の南には、道路を隔てて「家康公」とある。
「家康公」は豊臣政権下で最大の領地をもち、五大老の筆頭であった徳川家康のことである。
織田信長と強固な同盟関係を築いていた徳川家康は、本能寺の変(1582年)後、織田信長の次男・織田信雄を助けて豊臣秀吉と1584年(天正12年)と戦った(小牧・長久手の戦い)。
この小牧・長久手の戦いで、徳川家康は局地戦で勝利するものの膠着状態が続き、最後は豊臣秀吉と和議を結んだ。

1586年(天正14)年10月、徳川家康は大坂城(大阪府大阪市)において諸大名の前で関白・豊臣秀吉に臣従することを表明した。
その背景には、織田信雄が豊臣秀吉に臣従していたことや、豊臣秀吉の妹・旭姫が徳川家康の正室となったことなどがある。
豊臣秀吉の義弟となった徳川家康は、1587年(天正15)年8月、豊臣秀長と同格の従二位・権大納言に任じられ、羽柴の名字を下賜された。
ちなみに、徳川家康の屋敷の広さは「二町」(6,000坪)あるいは「三町」(9,000坪)で、その建築にあっては、豊臣秀長の命により家老・藤堂高虎が大台所と門を造り進上したことが諸記録にみられる。

徳川家康(「家康公」)の屋敷の西には「四国衆」と「長曽我部」、そして南には「中川瀬兵衛」、「早川主馬」とある。
「長曽我部」は、四国統一を目指したが、四国平定(1585年)で臣秀吉のよって降伏し、土佐一国(高知県)の領有を許された長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)とである。
豊臣秀吉に臣従後、九州平定(1586年)に参陣するが、戸次川(へつぎがわ)の戦いで嫡男・長宗我部信親(のぶちか)が討ち死にした。
1589年(天正17年)ころに「羽柴」の名字を与えられており、小田原攻め(1590年)には長宗我部水軍を率いて下田城(静岡県下田市)攻めや小田原城包囲で活躍した。
「長曽我部」の北の「四国衆」は池 頼和(いけ よりかず)を主力とする長宗我部水軍の屋敷と考えられる。

「中川瀬兵衛」は豊臣秀吉に仕えて「鬼瀬兵衛」と讃えられたが、賤ヶ岳の戦い(1583年)で戦死した中川清成(なかがわ きよなり)の嫡男・中川秀政(ひでまさ)のことと考えられる。
中川秀政は父ともに織田信長に仕えた後、豊臣秀吉に仕えての小牧・長久手の戦い(1584年)や四国平定(1585年)などで戦功をあげた。
しかし、1592年(天正20年)、朝鮮に出兵中に鷹狩をおこなっていた時に敵兵に討ち取られという失態を犯したが、弟・中川秀成(ひでなり)が半減された所領を相続した。

「早川主馬」は豊臣秀吉の馬廻衆を務め、主馬頭(しゅめのかみ)の官位をもつ早川長政(はやかわひでなり)のことである。
小牧・長久手の戦い(1584年)や四国平定(1585年)、九州平定(1586年)などで活躍する一方、方広寺の大仏造営で作事奉行を務め、聚楽第行幸では関白の行列に供奉している。
その後、豊後国(大分県)府内2万石の大名になるが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に属して改易となった。

また、徳川家康(「家康公」)の屋敷の東側には道を挟んで「浮田宰相」、南は隣接して「脇坂中務」、「加藤左馬介」とある。
「浮田宰相」は備前国(岡山県)の戦国大名・宇喜多直家(うきた なおいえ)の嫡男として生まれ、豊臣政権下で五大老の一人となった宇喜多秀家(ひでいえ)のことである。
宇喜多秀家は、家督を継いだ幼少時から豊臣秀吉に重用され、前田利家の4女で豊臣秀吉の養女となった豪姫(ごうひめ)を正室として迎え、豊臣一門の扱いを受けていたと考えられる。
1587年(天正15年)に豊臣姓と羽柴の名字を与えられ、同年11月に正四位下・参議に任じられ、翌年4月には従三位に昇った。
なお、宇喜多秀家の名称を「羽柴備前宰相」や「浮田宰相秀家」と記している記録もある。

「脇坂中務」は脇坂安治(わきさか やすはる)、「加藤左馬介」は加藤嘉明(かとう よしあき)のことで、両者とも賤ヶ岳の戦い(1583年)で活躍し「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられている。
1585年(天正13年)、豊臣秀吉の関白就任に伴い、脇坂安治は従五位下・中務少輔(なかつかさのしょう)に、加藤嘉明は従五位下・左馬助(さまのすけ)に任じられた。

また、東門の外には、北側に「戸田民部」、南側に「牧野兵部」、「水野惣兵衛」と続いてある。
「戸田民部」は豊臣秀吉の古参の家臣で「戸田民部少輔」の名称で知られる戸田勝隆(とだ かつたか)のことである。
はじめ織田信長に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となり、黄母衣衆(きぼろしゅう)の筆頭に選ばれた。
四国平定(1585年)・九州平定(1587年)などで戦功をあげる一方、近江国(滋賀県)の検地奉行や城割奉行なども務めた。

「牧野兵部」は「牧村兵部」の誤りで、従五位下・兵部大輔(ひょうぶのたいふ)の官位をもつ牧村利貞(まきむら としさだ)のことと考えられる。
織田信長の没後、豊臣秀吉に仕えて馬廻りとなり、小牧・長久手の戦い(1584年)、四国平定(1585年)、九州平定(1587年)に参陣したが、1593年(文禄2年)7月、出兵した朝鮮において病没した。

「水野惣兵衛」は徳川家康の生母・於大(おだい)の方の弟で、「徳川二十将」の1人に数えられている水野忠重(みずの ただしげ)のことである。
織田信長に属していた異母兄・水野信元(のぶもと)に仕え、織田家の陪臣となったが、1561年(永禄4年)に岡崎城(愛知県岡崎市)の徳川家康(当時は松平元康)の傘下に入り戦功をあげた。
しかし、1580年(天正8年)に水野家当主になると、織田信長の直臣となり、織田信忠の軍団に組み込まれたと推測されている。
本能寺の変(1582年)後は織田信雄に属したが、小牧・長久手の戦い(1584年)後に豊臣秀吉の直臣となり武者奉行に任じられた。
その後、九州平定(1587年)に参陣し、1587年(天正15年)7月に従五位下・和泉守に任じられて豊臣姓を賜った。

「聚楽第」大名屋敷の配置

前述したように聚楽第図には、諸大名24名と千利休の屋敷が記載されている。
外郭内には、豊臣一門・親族の豊臣秀長、豊臣秀次、豊臣秀勝、小早川秀秋の屋敷と、豊臣姓を下賜された浅野長政・蒲生氏郷・前田利家・細川忠興・堀秀政・長谷川秀一の屋敷、そして前田玄以と千利休の屋敷である。
外郭外には、中村一氏、堀尾吉晴、「小寺實宰」、徳川家康、長宗我部元親、中川秀政、早川長政、宇喜多秀家、脇坂安治、加藤嘉明、戸田勝隆、牧村利貞、水野忠重の屋敷がある。

こうした聚楽第図における大名屋敷の配置や面積、記載の仕方などについて、特に以下の3点のことが注目される。
一つは、豊臣一門と考えられる宇喜多秀家の屋敷が外郭外に位置することである。
宇喜多秀家は豊臣秀吉の養女・豪姫を正室とし、豊臣姓と羽柴の名字も与えられ、従三位・参議という高い官位もつ人物が外郭内に屋敷がないのはなぜなのか。
外郭内に適当な敷地が確保できなかったのか、あるいは道を挟んで西側に屋敷がある徳川家康を監視するためとも考えられる。

二つ目は、各大名の官位や石高と大名屋敷の広さとが一致していないことである。
聚楽第図の各大名屋敷の面積は豊臣秀次が最も広く、次いで水野忠重、徳川家康、豊臣秀長、中川秀政と続く。
なぜ、約4万石でしかない水野忠重の屋敷が、約240万石の徳川家康や約100万石の豊臣秀長より広いのであろうか。
ちなみに1587年(天正15年)8月時点の官位は、水野忠重が従五位下・和泉守、徳川家康と豊臣秀長はいずれも従二位・権大納言であり、官位の面でも相当な違いがある。
聚楽第図の作成に水野忠重ゆかりの人物が関わっており、その屋敷を誇張して広く記載したとも考えられるが、詳細は定かでない。
聚楽第図は各大名の屋敷面積を変形・誇張して表現しており、一次資料として活用するには課題が残る。

三つ目は、聚楽第図の大名の表記について、徳川家康のみが「家康公」と記載されていることである。
徳川家康以外の各大名の表記は、姓と官職を基にした通称(以下、「通称」という)、あるいは領国と通称の組み合わせである。
例えば、浅野長政は弾正少弼の官職であったことから「浅野弾正」、豊臣秀長は大和国を領して権大納言であったことから「大和大納言」と記載されている。
それに対して、徳川家康は一人だけ「家康公」と名前で記載されていることは、徳川家康を特別扱いしたものと考えられる。

聚楽第の大名屋敷に関する資料として、聚楽第図の信憑(しんぴょう)性は高いと評価されているが、大名屋敷の広さや名称などを忠実に記載しているとは限らない。
そのため、聚楽第の大名屋敷の実態を解明するには、聚楽第図と絵画資料、文献史料、由来する町名、そして発掘調査成果などを照合・分析しながら総合的に探究する必要がある。

それらのうち、発掘調査成果について、2023(令和5年)9月、聚楽第の南側で徳川家康の屋敷に関連する遺構が発見された。
マンション建設に伴う発掘調査で、南北9.2m、東西2.7m、厚さ0.4mにわたり、こぶし大の石と瓦片を詰めて地盤を改良した跡(以下、「地業(じぎょう)跡」という)が出土した。
調査を担当した京都市文化財保護課は、調査地点や出土土器の年代観などから徳川家康の屋敷の整備に伴う地業跡だった可能性があるとしている。
これまで出土した家紋付き金箔瓦(きんぱくがわら)とともに、大名屋敷の実態を解明するための貴重な資料となるであろう。

今後、聚楽第の大名屋敷跡の発掘調査が多くおこなわれ、その成果が速やかに公表されることを期待したい。

<主な参考文献>

・桜井 成広 1971年『豊臣秀吉の居城 聚楽第/伏見城編』日本城郭資料館出版会
・財団法人京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館 2010年『京都市考古資料館開館30周年記念 京都 秀吉の時代 ~つちの中から~』
・西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社
古川 匠 2025年「聚楽第外堀の存在とその評価」『立命館大学考古学研究報告2 Digging Up』立命館大学考古学・文化遺産専攻

(寄稿)勝武@相模

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