【豊臣秀吉と城】幻の城「聚楽第」の構造・建物を探究する~絵画資料・文献史料・考古資料から~

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幻の城「聚楽第」の概要

現在、高等学校の歴史科目「日本史探究」で使用されている各種教科書のうち、山川出版社版『詳説日本史』(2022年検定済、2023年4月発行)では、学習項目「豊臣秀吉の全国統一」に聚楽第(じゅらくてい)のことが扱われている。
その本文に豊臣秀吉は「九州から帰ると、本拠を大坂城から京都に築いた聚楽第に移し、翌年には後陽成天皇をまねき、諸大名を集めて政権への忠誠を誓わせた。」とある。
また『聚楽第図屏風』(三井記念美術館蔵、東京都)の一部分を切り取った「聚楽第」と題する写真が示されている。
この写真には「秀吉が平安京大内裏の跡地に築いた城。周囲には大名や家臣の屋敷、町家がつくられた。秀吉は京都を土塁(御土居)で取り囲み、聚楽第の城下町として改造した。」との説明が加えられている。

聚楽第は、豊臣秀吉が1586年(天正14年)2月21日から内裏の北東側にあたる当時は「内野」と呼ばれていた大内裏(平安宮)の跡地に築いた京都における豊臣秀吉の居城である。
聚楽第は1587年(天正15年)9月に完成し、九州平定から帰京した豊臣秀吉が移り、1588年(天正16年)4月には、後陽成天皇が聚楽第への行幸(ぎょうこう)をおこなっている。
1591年(天正19年)12月、豊臣秀吉は養子の豊臣秀次に関白職とともに聚楽第も譲ったが、1595年(文禄4年)7月に豊臣秀次が失脚すると、聚楽第は破却された。
この破却は『日本西教史』に「一宇も残さず、基礎にいたるまで悉く毀たしめ」とあるように徹底的したもので、建物の大半は築城中の伏見城(京都市伏見区)へ移築された。

破却後、聚楽第の跡地では勧進能(かんじんのう)がおこなわれ、芸能興行の場となったことが記録に残る。
例えば、『神龍院梵舜(ぼんしゅん)記』の1600年(慶長5年)の記事に「聚楽屋敷に能見物」、また1610年(慶長15年)の記事には「金春大夫(こんぱるだゆう)、聚洛古城において勧進あり」とある。
その後、聚楽第の跡地には、町家が建てられ「聚楽組」と呼ばれる上京(かみきょう)町組の一つとして編成された。
聚楽第の堀は町家から出されるゴミで埋められ、その地に「聚楽蕪菁(かぶら)」や「聚楽牛蒡(ごぼう)」などの京野菜が作られたという。

以上のように、聚楽第の位置や範囲、構造などは、江戸時代の早い時期から不明で「幻の城」と呼ばれていた。
それが、近年の発掘調査の成果を中心に『駒井日記』などの文献史料や『洛中洛外屏風』などの絵画資料などを照合・分析する総合的な研究の進展により、往時の聚楽第の姿が明らかになりつつある。

パンフレット「聚楽第」京都市埋蔵文化財研究所

文献史料からみる「聚楽第」

文献史料や絵画資料、古絵図、考古資料などから、聚楽第は内郭と外郭の二重構造で、内郭は本丸を中心に南二之丸・北之丸・西之丸の方形の郭があったと考えられている。
文献史料では『聚楽行幸記』やルイス・フロイスの『日本史』、『駒井日記』などが往時の聚楽第の様子を伝えている。

『聚楽行幸記』は、豊臣秀吉の命で御伽衆(おとぎしゅう)・大村由己(ゆうこ)が後陽成天皇の聚楽第行幸(1588年4月)を記した公式な記録で、その信憑性は高く評価されている。
『聚楽行幸記』には、聚楽第の構造や建物について「聚楽と号して里第をかまへ、四方三千歩の石のついがき山のごとし、楼門のかためは鉄の扉、瑶閣星を摘んでたかく」や、「瑶閣星を摘んでたかく」、「儲の御所は檜皮葺也」といった記述がある。
こうした記述から、聚楽第は3,000歩四方(約9,917㎡)規模で「ついがき」(築地塀)が巡り、門は鉄門、高層建築があり、檜皮葺(ひわだぶき)の行幸御殿があったことがわかる。

ルイス・フロイスの『日本史』には「周囲に城壁が張りめぐらされ、すべての壁は石垣で、まるで岩石と漆喰で固められたように巧妙にできている。その濠は広く、かつ深くて水深3ブラザ以上にも及び、しかもこれらの壁や濠にみられるものとては、ただ清潔さと新鮮さだけである」や、「他のすべての邸宅を威圧して数階に達する壮大な一群の邸宅」、「都に新たに構築した城と諸屋の同じ囲いの内部に、内裏がくつろぎに行くための幾つかの御殿を建てさせた。金属の銀の柱と鉄の門を造らせ」といった記述がある。
聚楽第は、周囲に石垣を伴う城壁と広大で深い濠(堀)が巡っていたこと、高層で壮大な邸宅や行幸御殿、鉄門などの建造物が詳しく記されている。

『駒井日記』は豊臣秀次の近習であった駒井重勝が記したもので、1595年(文禄4年)4月10日条には、聚楽第の最末期の本丸の規模、南二之丸・北之丸・西之丸の規模、内郭を囲む柵の木の範囲について以下の記述がある。
本丸の規模については「聚楽本丸石垣之上壁之廻間數、一、南之門より北之門迄百八拾間、一、北之門より西之門迄貳百貳拾間、一、西之門より南之門迄八拾六間、一、合四百八拾六間 但八町壹反切」と記されている。
本丸南之門から北之門までが約355m(「180間」)、北之門から西之門までが約433m(「220間」)、西之門から南之門までが約169m(「86間」)で、本丸の合計は約957m(「486間」)である。

南二之丸・北之丸・西之丸の規模については「右之外 一、南弐之丸之廻 百八拾四間、一、北之丸之廻百九拾貳間、一、西之丸之廻 百三拾間 合、五百六間」と記されている。
南二之丸の周囲は約362m(「184間」)、北之丸は約378m(「192間」)、西之丸は約256m(「130間」)で、合わせて約920m(「506間」)である。

柵の木の範囲については「聚楽柵木通間數 一、南二丸門より北之門迄四百五十間、一、北之門より西之門迄三百五拾五間、一、西之門より南之門迄貳百貳拾貳間、合千三拾壹間、但十七町壹反切五間」とある。
南二之丸から北之丸までは約887m(「450間」)、北之丸から西之丸までは約699m(「355間」)、西之丸から南之丸までは約437m(「222間」)で、合わせて約2031m(「1031間」)である。

絵画資料からみる「聚楽第」

絵画資料の中で、1625年(寛永2年)~1627年(寛永4年)頃に描かれたとされる『京都図屏風(地図屏風)』(個人蔵)は、聚楽第の堀の形状と位置を記す唯一の資料とされている。
それによると、本丸は、北堀が一条通の南方、東堀が大宮通、南堀は上長者(かみちょうじゃ)町通、西堀は裏門通付近にあった。
また、北之丸の北堀は横神明(よこしんめい)通、南二之丸の南堀は出水(でみず)通の北方、西之丸の西堀は浄福寺(じょうふくじ)通付近にあったものと推定されている。

『聚楽第図屏風』(三井記念美術館所蔵)や『聚楽第行幸図屏風』(堺市博物館蔵)、『洛中洛外図屏風』(尼崎市教育委員会蔵)には、本丸内の建物が描かれている。
建物は瓦葺(かわらぶき)の4重天守や本丸南東隅と北東隅に三重櫓(やぐら)、3棟の二重櫓、3つの門、檜皮(ひわだ)葺の御殿建築、井戸、台所、土塀などで、一部の建物には金箔(きんぱく)瓦が使われている。

天守は、本丸北西の隅に入母屋造(いりもやづくり)の櫓の上に方形の望楼(ぼうろう)をのせた望楼型天守として4層あるいは5層として描かれている。
2層目の屋根には入母屋破風(いりもやはふ)と大きな千鳥(ちどり)破風が設けられている。
最上階には、廻縁(まわりえん)があり、平側(ひらがわ)に二つの華頭窓(かとうまど)、妻(つま)側には「桟唐戸(さんからど)」と呼ばれる開き扉がある。

『洛中洛外図屏風』や『聚楽第行幸図屏風』には行幸行列も描かれていることから、檜皮葺の御殿建築の中には、後陽成天皇行幸(1588年4月)の際に使われた2階建ての行幸御殿があると考えられる。
本丸の周囲には、ルイス・フロイス『日本史』にも記されているように石垣が巡り、その上に城壁と櫓群が描かれている。
本丸の外側は、東方向に大きな門があり、その両脇には石垣と城壁が描かれているが、外郭の四周に石垣と城壁が巡っていたかどうかは、金雲に隠されているため不明である。
なお、これらの絵画資料には、本丸は描かれているが、西之丸や南二之丸など他の郭は描かれていない。
また、聚楽第の周囲に外堀が描かれず、その代わりに大名屋敷が描かれていることなど、絵画資料は部分的な脚色や、天守や御殿など特定な建物に焦点を当てた描写もみられ、聚楽第の実態を忠実に反映しているとは限らないのである。

発掘調査成果からみる「聚楽第」

現在、聚楽第の跡地一帯は住宅が密集し、大規模な発掘調査は期待できないが、住宅の建て替えなどに伴う小規模な発掘調査がおこなわれており、貴重な成果が蓄積されている。
主なものを挙げると、本丸では1991年(平成3年)の本丸東堀の発掘調査で、幅約40m(推定)、深さ約8.4mの堀が検出され、堀の埋土からは大量の金箔瓦が出土した。
出土した金箔瓦は軒丸(のきまる)瓦・軒平(のきひら)瓦・鬼板(おにいた)瓦・熨斗(のし)瓦などの屋根の軒先と棟(むね)を飾る瓦である。
金箔瓦の中には、聚楽第築城に伴い新たに製作された瓦に混じって、山崎城(京都府大山崎町)や坂本城(滋賀県大津市)などの廃城で使われていた瓦に金箔を貼ったものが含まれているという。

「聚楽第跡出土金箔瓦」

また、2012年(平成24年)の本丸南堀の発掘調査では、本丸正面の重要な地点で石垣が検出された。
北ノ丸では、1997年(平成9年)の北ノ丸北堀の発掘調査で、石垣基底部の石列が検出された。
外郭では、1999年(平成11年)に外郭西側で堀状遺構の西側肩部が確認され、2023年(令和5年)に幅約12m、深さ約3.0mの南北方向に続く素掘りの堀状遺構が検出された。

以上の他にも発掘調査の成果は蓄積されており、近年では「地表面探査法」という地面に揺れを与え、その揺れが伝わる速さによって地盤の硬軟を判断する調査方法により、埋もれた堀跡のなどの正確な情報が得られている。

今後、これらの研究成果と文献史料や絵画資料などの照合・分析を通して聚楽第の位置や規模、構造などの解明がより進むことを期待したい。
また、「日本史探究」などの授業で聚楽第のことを学習した生徒をはじめ多くの方が、往時の聚楽第の姿を想像しながら見学できるようにする工夫を考えていきたい。

<主な参考文献>

桜井 成広 1971年『豊臣秀吉の居城 聚楽第/伏見城編』日本城郭資料館出版会
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社
財団法人京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館 2010年『京都市考古資料館開館30周年記念 京都 秀吉の時代 ~つちの中から~』
古川 匠 2025年「聚楽第外堀の存在とその評価」『立命館大学考古学研究報告2 Digging Up』立命館大学考古学・文化遺産専攻
「1.平安京跡・聚楽第跡発掘調査報告」

(寄稿)勝武@相模

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