概要
1582年(天正10年)8月12日早朝、上洛中の織田信長が明智光秀に本能寺で討ち取られた(本能寺の変)。
そのとき豊臣秀吉は毛利氏の備中高松城(岡山市北区)を攻めていたが、速やか講和して京都に戻り、明智光秀を山崎の戦いで打ち破った。
豊臣秀吉は1583年(天正11年)に柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破りると、織田信長の後継者としての地位を確立し、全国統一事業と並行して、天皇が居住する京都の支配も進めていった。
1583年(天正11年)年、豊臣秀吉は京都の居所として妙顕寺(みょうけんじ)城を築き、次いで1585年(天正13年)に関白に就任すると、翌1586年(天正14年)2月から大内裏(平安宮)跡に聚楽第(じゅらくのでい)を築き始めた。
聚楽第は同年9月に完成して京都における豊臣秀吉の居城となるが、関白職を譲った豊臣秀次(ひでつぐ)が失脚すると破却された。
京都での居所を失った豊臣秀吉は、1597年(慶長2年)、現在、京都大宮御所・仙洞御所がある場所に京都新城を築いた。
この妙顕寺城・聚楽第・京都新城が京都における豊臣秀吉の居城であり、京都支配の拠点であった。
高等学校日本史教科書に取り上げられている聚楽第は著名であるが、妙顕寺城と京都新城についてはあまり知られていない。
本稿では妙顕寺城・聚楽第・京都新城について、築城の背景や歴史などに関する最新の情報をもとに解説する。
妙顕寺城
豊臣秀吉が本能寺の変後に京都支配の拠点として選んだ場所が、妙顕寺が所在する場所であった。
妙顕寺は1321年(元亨元年)に日像(にっしょう)が建立した京都で初となる日蓮宗寺院である。
豊臣秀吉は1584年(天正12年)4月、妙顕寺を上京の寺ノ内に移転させ、その跡地に京都支配の拠点として妙顕寺城の築城に着手した。
1585年(天正13年)7月に完成した妙顕寺城には、「天主」が存在したことや、豊臣秀吉の在京時以外は京都所司代を務めた前田玄以(まえだ げんい)の宿所であったことが、当時の日記にみられる。
妙顕寺城が豊臣秀吉の居城であったのは、1587年(天正15年)9月に聚楽第が完成するまでのわずかな期間であった。
妙顕寺城の規模などの詳細については不明な点が多く、その跡地は古城町(ふるしろちょう)、下(しも)古城町の地名が残されているにすぎなかった。
それが2007年(平成19年)に妙顕寺城跡の西側の隣接地で発掘調査がおこなわれ、幅約10m、深さ約1.4mの船入(ふないり)状遺構が発見された。
舟入状遺構からは荷札木簡が2点出土しており、また調査区域の西側が堀川に接していることから、妙顕寺城への荷物の集積場であったと推定されている。
聚楽第
豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白に任じられると、1586年(天正14年)2月21日から妙顕寺城に代わる京都の居城として聚楽第の築城を始めた。
『多聞院日記』天正14年2月27日条には「去廿一日ヨリ内野御構普請」との記述があり、その場所は内裏の北東側にあたる当時は「内野」と呼ばれていた大内裏(平安宮)の跡地であった。
築城工事は諸大名に割り当てられ、10万人を超える人夫が従事して、聚楽第は1587年(天正15年)9月に完成した。
『兼見卿記』天正15年正月24日条などの記事によると、1587年(天正15年)正月には「作事」(建築工事)が終了し、その後は樹木や石を諸公家・寺社より徴発しながら庭園を造営している。
1587年(天正15年)9月、九州平定から帰京した豊臣秀吉は、完成直後の聚楽第に移り居城とした。
1588年(天正16年)4月には後陽成天皇の聚楽第への行幸が催され、その際、豊臣秀吉は天皇の御前で諸大名に絶対的な臣従を誓約させている。
このように、聚楽第は豊臣秀吉の京都支配の本拠として、その権威と権力を誇示する役割を担ったのである。
1591年(天正19年)12月、豊臣秀吉は養子の豊臣秀次に関白職とともに聚楽第も譲った。
ところが、1595年(文禄4年)になると、豊臣秀吉と豊臣秀次の関係が悪化し、豊臣秀次は失脚して聚楽第を追われた。
同年7月、豊臣秀次が高野山で自害すると、翌8月には豊臣秀吉の命で聚楽第は徹底的に破却された。
建物の大半は『橙心草庵文書』の「七月廿八日豊臣氏奉行奉書」に「聚楽御殿共伏見へ御引なされ、只今一度に御立なされ候」とあるように、築城中の伏見城(京都市伏見区)へ移築された。
聚楽第は築城後わずか8年で徹底的に破却されて、現在、この痕跡を示す建造物などは残されていないため、かつては「幻の城」と言われていた。
近年、発掘調査の成果と絵図類や文献史料を照合・分析するなどの研究の進展により、その位置や規模、構造などが明らかになりつつある。
『京都図屏風』や『豊公築所聚楽城之図』などの絵図によると、聚楽第の構造は内郭と外郭の二重構造になっている。
内郭は北から北の丸・本丸・西の丸・南二の丸からなり、その内部には金箔瓦で飾った天守や隅櫓、檜皮葺の御殿などの建物が造営された。
一方、外郭には大手門や堀にかかる橋が造られ、聚楽第の周辺には諸大名らの屋敷や町人地である「聚楽町」がつくられた。
1991年(平成3年)の発掘調査において本丸東堀跡が確認され、金箔瓦が大量に出土した。
さらに、これまでの発掘調査で北の丸北堀の石垣跡や、周辺の大名屋敷跡からは、そこで使われていたものと考えられる金箔瓦が発見されている。
現在、聚楽第の跡地一帯は住宅が密集しており、大規模な発掘調査は期待できないが、住宅の建て替えなどに伴う小規模な発掘調査の成果が蓄積されている。
京都新城
聚楽第の破却により京都での居所を失った豊臣秀吉は、1597年(慶長2年)に京都に新たな居城を築いた。
これが「太閤御屋敷」・「新城」・「秀頼卿御城」などとも呼ばれる京都新城であり、その築城工事は1597年(慶長2年)正月末から関東の諸大名を動員しておこなわれた。
同年9月に完成して豊臣秀吉・秀頼父子は伏見城から京都新城に入り、9月27日に豊臣秀頼はここから宮中に参内していることが諸史料からわかる。
1598年(慶長3年)8月、豊臣秀吉が伏見城で没すると、後継者の豊臣秀頼は京都新城に住むことはなく、大坂城(大阪市中央区)に居住した。
1599年(慶長4年)9月からは大坂城西の丸を徳川家康に明け渡すことにした豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の屋敷(以下、「高台院屋敷」という)となった。
翌年の関ヶ原の戦い(1600年)に際して、南側の門や内塀、石垣などは取り壊されたが、戦後も高台院屋敷として使われた。
江戸時代初期の公家町を描いた『中むかし公家町之絵図』(京都府立京都学・歴彩館所蔵)には、現在の京都大宮御所・京都仙洞御所の場所に「高台院様」と記されているが、その時期には北側の住居部分に縮小されたものと考えられる。
1624年(寛永元年)、高台院が没した後、京都新城は1627年(寛永4年)に後水尾院・東福門院御所が造営された。
京都新城の位置や範囲は、山科言継(やましな ときつぐ)の日記である『言継卿記(ときつぐきょうき)』の以下の記事から知ることができる。
それによると、1597年(慶長2年)正月の築城当初は「三条坊門ヨリ四条坊門マデ四町、又西ハ東洞院ヨリ東へ四町」(慶長2年正月24日条)とあるように、当初は三条通万里小路を中心とする4町四方の範囲であったが、同年4月には「北ハ土御門通ヨリ南ヘ六町、東ハ京極ヨリ西ヘ三町」と場所を移して築城された。
京都新城の敷地は東西約400m・南北約800mの約32万㎡の広大なもので、現在の京都大宮御所・京都仙洞御所の範囲にあたる。
京都新城に関する文献史料や絵図類は少なく、これまでの発掘調査において遺構や遺物が発見されたことがなかった。
それが2019年(平成元年)11月から2020年(平成2年)3月にかけて、京都仙洞御所内で消火設備整備工事に伴う発掘調査がおこなわれ、京都新城の石垣と堀の一部が検出された。
石垣は南北方向に約8m、大型の自然石を野面積みで3~4段を積み上げた、高さ約1.0~役1.6mが検出された。
当時の地表面との関係から、当時の石垣は5~6段積まれており、高さは約2.4mで、調査区外へ続いたものと推定されている。
石材は京都盆地周辺で採取された花崗岩を主とし、他にチャートや石英斑岩がみられる。
石垣は面や並びのラインが直線に整えられて丁寧に構築されており、その年代は、構築技法や層位関係、出土遺物などから安土桃山時代のものとされている。
堀は石垣の東側にあり、長さは南北方向に約8m、幅は東端が調査区外になるため約3m分が検出されている。なお、堀の幅は、京都大学防災研究所による表面波探査では約20mと推定されている。
堀の深さは約2.4mで、堀底には厚さ40㎝以上の粘土が貼られており、多量の礫(れき)で一気に埋められた痕跡がみられる。
この礫層の中には石垣の上半部を崩し落とした転落石があり、堀の埋め立てと石垣を崩したのが同時期であったことが確認されている。
遺物は、堀の中から桐文と菊文の金箔瓦を含む瓦10点が出土しており、その種類は以下のとおりである。
【出土瓦】
金箔五七桐文軒丸瓦(きりもんのきまるがわら)3点
金箔菊花文(きくかもん)軒丸瓦1点
金箔花文軒平瓦1点
金箔唐草文軒平(からくさもんのきひら)瓦1点
金箔飾り瓦2点
三巴文(みつどもえもん)軒丸瓦1点
三巴文飾り瓦1点
これらの瓦は文様や成形技法などから安土桃山時代のもので、京都新城で使用された瓦であると考えられている。
以上、検出された石垣や堀は、出土した瓦の年代観などから京都新城のものであることが判明している。
また、確認された堀の埋め立てや石垣の破壊の跡は、関ケ原の戦い(1600年)の直前に門や塀、石垣などが壊されたときのものと考えられている。
また、この発掘調査で発見された石垣の規模は、聚楽第の本丸西堀の西端とほぼ一致することから、京都新城と聚楽第の本丸の規模が近いものであったことと推定されている。
豊臣秀吉と京都の城
京都は794年(延暦13年)の平安京造営以降、天皇を中心とする公家勢力や寺社勢力の拠点であり、その権威は戦国の動乱を経た後も健在であった。
また、京都は東国と西国を監視するに好都合な日本列島のほぼ中心に位置し、全国統一を目指す豊臣秀吉にとって京都を支配することは重要な課題であった。
豊臣秀吉は、まずは本能寺の変後に妙顕寺城を築き、次いで1586年(天正14年)2月から大内裏(平安宮)跡に関白職に相応しい聚楽第を築いて京都支配のための本拠とした。
聚楽第の築城とそれに伴う大名屋敷の建設、城下町の整備は、豊臣秀吉が実施した「御土居(おどい)」の築造などの多彩な都市政策とも連動して、平安京以来の公家・寺社勢力の拠点であった京都を巨大な城郭都市へと変えることになった。
この京都における豊臣秀吉の権力の象徴であった聚楽第は、1595年(永禄4年)8月に関白職を継いだ豊臣秀次の失脚に伴い破却された。
1597年(慶長2年)、豊臣秀吉は現在の京都大宮御所・京都仙洞御所の場所に京都新城を築城した。
この時期の豊臣秀吉は伏見城や大坂城、名護屋城などを居城としており、なぜ、京都新城を築く必要があったのかについては明らかではない。
この京都新城に関する文献史料や絵図類などの資料は少なく、発掘調査による情報もわずかであり、実態解明に向けては多くの課題が残されている。
<主な参考文献>
池上 裕子 2002年『日本の歴史 第15巻 織豊政権と江戸幕府』講談社
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1981年『日本城郭体系 第12巻 大坂・兵庫』新人物往来社
財団法人京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館 2010年『京都市考古資料館開館30周年記念 京都 秀吉の時代 ~つちの中から~』
・ 「1.平安京跡・聚楽第跡発掘調査報告」
・ 「京都新城の発見―京都仙洞御所消火設備整備ほか工事に伴う発掘調査」
(寄稿)勝武@相模
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