真田幸隆とは 智略あふれた智将にして真田家を発展させた名将


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 真田幸隆(さなだゆきたか)は、信濃小県郡(長野県東御市)の豪族・滋野一族の本家筋となる海野棟綱(海野信濃守棟綱)の子(諸説あり)として、永正十年(1513年)に生まれた。

 そして、山家郷真田(長野県上田市)を知行すると、初めて真田氏を称し、最初は真田幸綱と名乗ったようだ。

 1541年、甲斐の武田信虎が諏訪頼重や村上義清と共に信濃に侵攻すると、5月の海野平の戦いで小県を領する海野棟綱ら滋野一族(海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏など)は敗北。

 真田幸隆は所領を失い、まだ幼い嫡男・真田信綱や正室・恭雲院を伴い、碓氷峠を越えて箕輪城主・長野業政を頼った。

 しかし、長野業政は信濃進出に積極的ではなく、その後、武田信虎を追放した武田晴信()が小県に進出すると、その若き武将の将来性を見抜いたようで、1543年~1548年頃に武田家に出仕し家臣に加わり旧領回復を目指したが、これも諸説あり。
 また、1543年には2男・真田昌輝が、1545年頃には、のち真田家を支えた3男・真田昌幸が誕生している。

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武田家臣として智略を振う

 武田信玄に臣従したあとは、武田軍の信濃先方衆として常に先陣を務めて転戦。

 1550年、武田信玄は再び村上義清に挑むも、砥石城(砥石城)攻めで大敗(砥石崩れ)。
 しかし、その後真田幸隆は「調略」による工作にて、1551年に砥石城を僅か1日で落としたのだ。
 これにより、武田家中でも認められ、旧領・真田の里を回復したばかりでなく、上田の一部も知行することとなる。
 村上義清はこれを契機に衰退し、1553年、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延び、真田家は真田本城を本拠地として砥石城番も兼ねた。

 1556年、川中島の戦いで最大の合戦となった際には、初陣の嫡男・真田信綱とともに妻女山への夜襲舞台に加わった。

 その後も武田信玄の勢力拡大に大きく貢献し、1563年には岩櫃城を攻略すると本拠地を移している。

 1567年には、病気のため家督を真田信綱に譲って隠居。
 そのため、武田信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらず、上杉謙信や北条氏康の抑えとして留守を守った。

 1574年5月19日、戸石城で病死。享年62。

 → 真田幸隆の詳細はこちら

 

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