湯本善大夫とは 湯本三郎右衛門とは 草津温泉の地侍

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湯本家とは?

 草津温泉の土豪・湯本善太夫が、湯本家の長であったが、1563年5月、長野原の戦いを機に武田信玄に出仕。
 1563年9月、真田幸隆(51歳)が吾妻郡の岩櫃城を攻めると、湯本善太夫を重んじ、岩櫃城攻めにおいて200余りの小隊を率いさせるなど、真田家では主に先陣を務めた。

 湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)には、この湯本善太夫の妹が嫁いでおり、1554年3月に湯本小三郎が生まれている。
 この湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)も湯本善太夫が武田信玄に味方した際に、同様に従い以後、真田家の家臣に加わった。

 湯本三郎右衛門の名だが、子どもも同じ名を使用し、また、湯本三郎左衛門と記載する事もあり、また湯本家は湯本五郎左衛門、湯本弥左衛門、湯本弥五右衛門、湯本八郎右衛門、湯本伝五郎、湯本新九郎など同族も多い為、注意しないと混同しやすい。

 1564年1月、湯本善大夫は武田信玄に白根硫黄5箱を贈呈すると、2月、湯本小次郎に草津湯および沼尾25貫文が安堵され、湯本善太夫も本領安堵となり、長野原城主を命じられ、湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)は草津を守った。

 1565年11月、嶽山城攻めに湯本善太夫と湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)も参陣したが、この時、湯本善太夫は負傷し重傷を負った。
 1566年5月、湯本善大夫は羽尾領林村内20貫文が加増された。

 1566年9月、武田信玄は内藤昌豊を先陣にして、箕輪城の長野業盛を攻略。この戦いの際、摺臼峠にて湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)が討死。享年35。
 この湯本小三郎はまだ13歳と若かった為、湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)の弟が跡を継いだ。
 その為、湯本善太夫は湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)の遺児、湯本小三郎、湯本小四郎、湯本小五郎、湯本しほ を養子にした他、湯本小三郎を元服させ、湯本三郎右衛門幸綱(湯本幸綱)と名乗らせ、湯本善太夫の湯本家(本家)の跡継ぎとした。

 1567年4月、草津にて打ち壊しが起こり、村半分が焼け落ち、5月、武田信玄は草津入湯を停止させている。

 1568年1月、湯本幸綱(湯本三郎右衛門幸綱)は、東光坊と共に旅に出て、小田原を経由して京都に入ると、武術修行しているが、翌年にも旅に出て、1570年には越後や甲府、そして京都と旅をし、1571年に草津に戻った。
 1572年8月の白井城攻めでは、湯本幸綱(湯本三郎右衛門幸綱)が兜首を取る活躍をするが、1573年3月には上杉謙信が白井城を奪還。そして、武田信玄が西上途中で没したが、1574年5月には、真田幸隆も病死。

 武田勝頼が武田家を実質統括するが、1575年6月、長篠の戦いで大敗北。
 真田信綱(38歳)、真田昌輝禰津元直、禰津月直、望月甚八郎、常田永助、河原正良、河原正忠、河野通秀らが討死したが、湯本善太夫も負傷して没した。

 その為、湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)(22歳)が、湯本家を継ぎ、9月に、矢沢頼康(矢沢但馬守)の娘・松(15歳)を正室に迎えた。




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 1576年6月、湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)は奪われた柏原城を奪還。

 その後、勢力が弱まった武田家の上野支配を北条家が脅かし始める。

 1580年1月、海野能登守を大将として、湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)、湯本左京進、鎌原石見、横谷左近、浦野平兵衛、蜂須賀伊賀らは、羽尾氏が守る大柏木城を夜襲。
 3月には、湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)、海野長門守、鎌原庄左衛門、横谷、西窪、浦野、富沢、池田佐渡、深井、蜂須賀、菅尾、稲田らが、大戸城主・真楽斎を攻略。
 鉢形城主・北条氏邦と白井城主・長尾憲景が真田昌幸を攻めると湯本左京進らは守備したが、5月になると沼田城を防衛していた藤田信吉が真田昌幸に降伏し、真田家は沼田城に入った。
 8月、真田昌幸が出陣し、廐橋の北条勢を攻撃した際には、湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)が先陣として不動山城を攻略した。

 1581年4月、武田勝頼は3名の家臣を草津温泉で湯治させる為、湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)に書状を送った。
 1581年11月、湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)らが海野兄弟を討ち果たしている?

 1582年2月、織田信忠率いる織田勢が武田討伐を開始。
 3月、真田昌幸の母、長男・真田信幸、その弟・真田藤蔵、真田源五郎、姉、矢沢頼綱の娘、祢津の娘、室賀の娘らが新府城を発ち、吾妻郡へ向かい、海野中務少輔、湯本幸運(湯本三郎右衛門幸運)、鎌原宮内少輔らが出迎えた。

 ※湯本氏に関する記述は、創作部分もありますので、ご了承願います。

 (参考) 戦国草津温泉記、wiki

 引用元: