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 禰津元直(ねづ-もとなお)は、信濃の小県郡禰津を本拠地とする戦国武将で、1495年生まれ。
 根津元直、祢津元直とも書く。官途は宮内大輔。禰津常安斎とも。
 子は禰津勝直、禰津政直、禰津信忠。

 1541年、武田信虎が小県へ侵攻した際に村上義清の軍勢に加わって抵抗したが敗北し、真田幸隆らと共に上野の吾妻郡に逃亡した。
 同じ神氏である諏訪頼重から領地を知行していたようだが、苦労の逃亡生活を送ったと考えられる。

 1542年12月15日には、娘が武田信虎の嫡男・武田晴信の側室となって、禰津御寮人と呼ばれたとあるが、小生は諏訪頼重の娘・諏訪御料人が、一度、禰津氏の養女となって輿入れしたと推測している。
 そして、この諏訪御料人(禰津御寮人)は武田勝頼を産んだ。

 1545年に武田信玄が父・武田信虎を追放して家督を継承すると、禰津家は武田家臣に加わり、禰津元直は次男・禰津政直に家督を譲った。
 その後、諏訪攻め、戸石城の戦いで戦功を挙げ、旧領を回復。

 主に真田幸隆の軍勢に加わったようで、岩櫃城攻めにも参加。
 その後、1567年箕輪城代を務めたが、1575年、長篠の戦いで討死した。子の禰津信忠も討死したとされる。

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禰津政直(根津政直)

 禰津政直・根津政直(ねづ-まさなお)は、1535年頃に、禰津元直の次男として誕生したようである。
 1545年に家督を継ぐと、武田信玄の家臣として緒戦で活躍。

 1567年には箕輪城代を父と共に務めたようだ。

 1575年の長篠の戦いでは、嫡子・根津月直が討死。

 その後、弟・根津信忠の子・根津信光に家督を譲ると隠居した。
 なお、禰津政直(根津帯刀)の次男が根津甚八貞盛と考えられ、父が隠居した際に、根津甚八も一緒に放浪したとも推測できる。
 そのため、根津甚八は放浪した際に、海賊の頭領となり、のち真田十勇士として真田幸村に仕えたと言う話になったのだろう。

 1582年、織田信長による甲斐攻めの際には、禰津政直は飯山城で守備して、菊姫の嫁ぎ先である上杉景勝へ援軍要請を行っていた。

 武田滅亡後、1583年に、禰津政直は徳川家康に臣従し、甲州黒沢と駿州厚原に350石を与えられた。
 この時、禰津から根津に名字を変えている。

 1590年、豊臣秀吉小田原攻めにて徳川家康が関東に移封となると、上野・豊岡5000石となった。

 上野・豊岡は根津政直の甥・根津信政が継ぎ、関ヶ原の戦いのあと、1601年に加増されて10000石となったが、跡継ぎに恵まれず、1626年に断絶した。

根津信光(根津昌綱)

 さて、長篠の戦いの後、根津本家は?(分家?)の家督を譲られた根津信光(1560年生まれ)は、禰津昌綱(根津昌綱)と称した。
 その後、真田昌幸とは不和になったとようで、いち早く徳川家康に臣従していたが、1582年、天正壬午の乱の際に、真田家が徳川家の配下に加わると、更に嫌ったようで、北条氏直に寝返っている。
 結局、真田昌幸に攻められて降伏すると、以後は徳川家康に臣従。
 第一次上田城の戦いでは、真田昌幸に臣従しており、以後は真田家臣として重用された。
 この時、上杉景勝の命を受けて、真田昌幸の与力になったともされている。
 なお、その上田城の戦いの際、攻め寄せる徳川勢をよそに、真田昌幸は囲碁を打っていたとされるが、その相手がこの根津信光(禰津昌綱、根津昌綱)と言う話もある。
 ※諸説あり。

 関ヶ原の戦いのあとは、真田信之の家臣になったようで、1620年に没したとされる。
 その後も禰津家は真田家の家老などを代々務めている。

真田昌幸~戦国時代を巧みに生き抜き真田家を守った名将
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