白倉武兵衛とは~武田家臣から真田家に仕えた武将


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 白倉武兵衛(しろくら-ぶへい)は、1547年生まれの武田家の家臣で、1564年に箕輪城攻めの際、真田幸隆が武田信玄に使いを出した武田家武将として白倉武兵衛の名が見られる。

 武田勝頼の自決後、白倉武助(父か?)と共に真田昌幸を頼って、真田家の家臣に加わると、幼少の真田幸村の側近となっり、上州攻略の際には矢野半左衛門尉、赤沢常陸助、佐藤備後守と共に真田昌幸の旗本の務めた。

 上田城の戦いでもその活躍が見られ、また、真田幸村と共にて禰津城への援軍をした際にも功をあげている。

 大坂屋敷の留守居役の際に、関ヶ原の戦いとなっている。

 しかし、その後の史料に白倉武兵衛の名は見受けられない。

 ※下記のコメント欄にオヒョウさまより、貴重な追加情報をお寄せ頂きました。ありがとうございます。

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コメント

    • オヒョウ
    • 2016年 1月 23日

     自坊の檀家さんの御先祖さんです(檀家さんは本家ではなく、分家ですが)。
     其の檀家さん宅の過去帳の記載では、

     白倉武兵衛道次、上州白倉郷(現・群馬県甘楽町)、第16代城主、白倉丹波守の二男。
     戒名は、白龍院殿暁譽紫雲道次大居士

     となっておりました。其れ以上の詳細は、不明ですが。

    • 高田哲也
    • 2016年 1月 24日

    オヒョウさま、この度は、大変貴重な情報をコメント賜りまして、深く御礼申し上げます。
    非常に参考になります。
    ありがとうございました。

    • オヒョウ
    • 2016年 2月 29日

     白倉武兵衛、についての追加情報です。

     檀家さんのお仏壇に、昭和になってから作られたお位牌がございました。
     其の裏には、「承應二年□月□日 肥後國下砥岐大浦村於而没」と刻まれておりました。
     恐らく墓標を丸々写したものだと思われます。
     何月何日なのかは、磨耗して判読不能となっていたのでしょう、多分。
     因みに。
     「承應二年」とは、1653年です。
     「下砥岐」の地名は、現・熊本県天草郡にございましたようです。

    • 高田哲也
    • 2016年 2月 29日

    オヒョウさま、再び誠に貴重な情報を賜りまして、深く御礼申し上げます。
    大変うれしく存じます。
    ありがとうございました。

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