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 真田昌幸は、1547年に真田幸隆の3男として生まれた。幼名は真田源五郎。
 母は河原隆正の妹・恭雲院(または阿続方)。

 この1547年頃は、父・真田幸隆が武田晴信(のちの武田信玄)の軍門に入ってまだ数年程度と考えられ、1545年に旧領「真田の里」に復帰したばかりだと考えられる。

 真田源五郎(真田昌幸)は7歳のとき1553年、父母の元を離れて武田家の本拠地・甲斐の甲府へと人質に出された。
 真田本家の跡取りとなる真田幸隆の嫡男・真田信綱や2男・真田昌輝ではなく、3男を人質として要求したのは、武田晴信が真田家にかなり配慮したものである。

 人質とは名目上のことで、甲府で英才教育を受けた真田源五郎(真田昌幸)は、その才能を見出されて土屋昌次、曽根昌世、三枝守友らと共に武田晴信の奥近習衆に加わった。

 1561年、第4次川中島の戦いで、真田源五郎(真田昌幸)は15歳で初陣したとされ、近習として武田信玄の警護をした。
 その後、1561年~1564年頃に、武田信玄の母方の支族・武藤家の養子に入って武藤家を継ぐと、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)と称した。

 1564年頃、遠江・尾藤頼忠(のちの宇多頼忠)の娘・山手殿(山之手殿、寒松院)を妻に迎えた。
 1565年7月には長女、1566年3月には長男・武藤源三郎(真田信之)が誕生している。
 そして、1567年には2男・武藤弁丸(真田幸村)が生まれた他、1568年には次女も誕生。

 1569年10月、三増峠の戦いで、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は馬場信春隊の検使の旗本を務めて一番槍の戦功を挙げた。
 1570年1月の駿河攻めの際には、曽根昌世と武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、武田信玄から「我が両眼だ」と賞賛されている。

 1572年10月、武田信玄の西上開始にも同行し、12月には三方ケ原の戦いでは真田一族も参戦し徳川家康・織田連合軍に勝利。
 1573年4月12日、武田信玄が帰陣途中の伊那駒場で病没。父・真田幸隆は落胆のあまり、七日六夜の間、食を断ったと伝わる。

 1574年5月19日、父・真田幸隆が死去。(享年62)
 真田幸隆の嫡子・真田信綱(真田昌幸の兄)が、真田本家の家督を継いだ。

 1575年5月21日、織田信長・徳川家康との決戦・長篠で戦いで武田勝頼は敗北し、多くの武田重臣も討死したが、真田家も当主・真田信綱(39歳)だけでなく、2男の真田昌輝も戦死した。
 このように兄2人が討死した為、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、真田家を継ぐことになり、真田昌幸と改名。子の真田信幸と真田幸村は真田郷に戻った。

 1578年、武田家と上杉家が同盟すると、御館の乱に乗じて相模の北条氏直が沼田領を狙ったため、武田勝頼は真田昌幸に沼田攻略を命じ、矢沢頼綱の活躍もあり1580年5月には藤田信吉沼田城を奪還した。

 1581年1月、甲斐・韮崎の新府城普請奉行として真田昌幸が赴任。また、計略によって沼田景義を滅ぼしている。

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武田滅亡 真田の生き残り術

 1582年3月、織田信長の武田攻めはじまり、織田信忠が信濃に侵攻。
 武田勢は家臣の裏切りが相次いで内から崩壊。
 新府城での最後の軍議にて、真田昌幸は岩櫃城(いわびつじょう)に逃れるよう、武田勝頼に進言するが、武田勝頼は小山田信茂の岩殿城を目指した。
 その逃亡途中、小山田信茂も裏切り、3月11日、武田勝頼は甲斐・田野で討死。(天目山の戦い)

 武田家が滅亡し、真田昌幸は独自に生きる残る道を選択することになり、織田信長に臣従するに決した。
 そして、上野の領主となった滝川一益の旗下に加わった。
 しかし、武田滅亡の3ヶ月となる1583年6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死。

 北条氏直ら北条勢が沼田へ侵攻したため、滝川一益と迎撃するも、6月18日に神流川の戦いで大敗。
 滝川一益は本拠地の伊勢長島城に逃亡したため、真田昌幸はやむなく北条氏直に臣従した。

 真田昌幸は、旧領・沼田城を確保したが、旧武田領の甲斐・信濃・上野を巡っては、、北条氏直、上杉景勝らが争うことになる。
 1582年7月12日、北条氏直が海野平に進攻し、真田を圧迫すると、9月28日、真田昌幸は北条家を見限って、徳川家康に寝返った。

 その後、徳川家康が北条氏直と和睦すると、その条件とされた沼田領の所有問題が勃発。
 徳川家康は沼田を北条家に譲渡するとしたことに真田昌幸は反発し、以後、徳川・北条と敵対していた越後・上杉家に接近し、ついに1585年7月15日、 越後の上杉景勝と同盟した。
 この時、真田幸村(真田信繁)は上杉家に人質として出されている。

 これに対し、徳川家康は北条氏直と連合で1585年9月、真田家攻略を開始。
 徳川勢7000の鳥居元忠大久保忠世平岩親吉らは上田城を攻撃するも、真田昌幸と子・真田信幸は僅か2000撃退し、この徳川勢相手に大勝利した真田昌幸の武名は天下に知れ渡った。
 その後、上杉家が豊臣秀吉に臣従すると、自動的に真田家も豊臣家に従う事となり、真田幸村は上杉から豊臣秀吉の人質になった。

 1586年、再び徳川家康は上田城攻めを開始したが、豊臣秀吉が徳川家康に働きかけ真田攻めは中止。徳川家康もついに大坂城に行き、豊臣秀吉に臣下の礼をとった。
 以降、豊臣秀吉は関東を徳川家康に任せた為、真田昌幸は徳川家康の与力大名に加わった。
 そして1587年3月、真田昌幸は駿府城にて徳川家康と会見し、その後、上洛して豊臣秀吉に拝謁している。

 1589年2月13日、嫡男・真田信幸が徳川家康に出仕すると才能を高く評価し、本多忠勝の娘・小松姫を徳川家康の養女とした上で、真田信幸に娶らさせた。
 そして、豊臣秀吉が沼田領の裁定を下し、沼田領の利根川より東が北条家の領地となり、真田家は代替地として信濃伊那郡・箕輪領を与えられた。
 しかし、1589年11月3日、真田昌幸の在京中に、北条氏邦の家臣・猪股邦憲が真田領・名胡桃城を攻め、真田家臣・鈴木主水が自決する事件が起こる。
 そのため、豊臣秀吉は、諸大名に対して北条征伐の宣戦布告状を通達し、小田原攻めが始まった。

 1590年3月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は3000の兵にて、直江兼続前田慶次らと共に前田利家の北国軍に加わった。
 小田原城降伏後、沼田領を安堵され、真田昌幸は真田信幸に沼田支配を委ねている。

 1592年3月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は朝鮮の役に参加。
 その後、1598年8月18日、豊臣秀吉が死去。

関ヶ原の戦い九度山蟄居

 1600年、真田昌幸、真田信幸、真田信繁は、徳川家康の会津・上杉景勝討伐軍に加わるため、宇都宮で徳川勢と合流しようとした。
 しかし、7月21日、下野・犬伏の陣に石田三成からの密使が届き、その長束正家増田長盛前田玄以の石田三成に協力せよとの報を受け、真田昌幸、真田信幸、真田信繁は真田家の方針を話し合った。
 その結果、真田昌幸と真田幸村は石田三成に協力するため、上田城に帰参。真田信幸は徳川勢にそのまま参加する事となる。この真田の決断は「犬伏の別れ」とも呼ばれる。

 徳川家康は真田信幸を賞して、離反した真田昌幸の所領も真田信幸に安堵させた。
 一方、真田昌幸と真田幸村は沼田城に寄って孫(真田信幸の子)の顔を見てから帰ろうとしたが、城を守る真田信幸の正室・小松殿は入城を拒否したと言う逸話もある。

 そして、中仙道を通り、関ヶ原を目指した徳川秀忠勢38000と、上田城で合戦となる。
 その大軍を相手にも徳川勢に大損害を与え、上田城で篭城したが、徳川秀忠は先を急ぐために上田城攻めを諦めて美濃へ軍を進め、これで2回、徳川相手に勝利した事となった。
 徳川秀忠は悪天候もあり、結果的に9月15日の関ヶ原決戦に遅参した。

 関ヶ原の結果、石田三成に協力した真田昌幸と真田幸村は上田領没収と死罪の沙汰が下されたが、真田信之や本多忠勝らの助命嘆願もあり、命は助けられ、16人の家来と高野山麓の九度山に蟄居した。
 山手殿は真田信之に引き取られ上田に留まり、出家して名を寒松院と改めている。
 この九度山に付き従った16人の家臣は「真田十勇士」の元となった。
 真田昌幸は涙ながらに「悔しい。家康をこのようにしてやりたかった」と語ったと言う。

 真田昌幸は真田幸村と九度山の真田庵で暮らしたが、1611年6月4日、大阪の陣を目前にして九度山で病死。享年65歳。

 遺骸は本領の真田長谷寺に葬られた。

真田昌幸の家族

 正室:山手殿(山之手殿、寒松院) 出自は宇多頼忠の娘という説が最も有力
 側室:不詳(複数?)
 長男:真田信幸(真田信之)、次男:真田信繁(通称は真田幸村)、三男:真田昌親、四男:真田信勝
 長女:村松殿(小山田茂誠の妻)、次女:名前不詳、三女:名前不詳、四女:名前不詳、五女:名前不詳、六女:清光院、七女:楽

 →真田昌幸~戦国時代を巧みに生き抜き真田家を守った名将(詳細版)
 →岩櫃城【いわびつじょう】訪問記 真田幸隆のアイデア溢れる連携陣形
 →上田城のみどころまとめ 真田幸村も活躍した信州上田城
 →犬伏の別れ~真田家の生き残りをかけた決別の地「犬伏」と「小山評定跡」訪問記・駐車場情報
 →真田幸村の生き様
 →真田丸とは?
 →志紀長吉神社と道明寺の戦い【志紀長吉神社訪問記】幸村ゆかりの地
 →蓮華定院【真田昌幸と真田幸村が最初に蟄居した幽閉の地】高野山
 →真田幸隆・真田昌幸の墓「長谷寺」上田市真田の里
 →高野山・奥の院「武将の墓」特集
 →大阪の真田幸村ゆかりの地

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